赤羽記04保科筑前守 高遠頼次の家老に


保科筑前守 高遠頼次の家老に

※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。


是ヨリ暫ノ後 上牧ト云所ニ ノソコ(野底)ト云所 七十石有 之ヲ保科氏ヘ領セシム 


頼次ノ親ニ至テ悉ク無禮ニアリケリ 然故 諸士疎ンジ果 皆 我々ニ成 是故 勢大ニ衰ヘ 漸二万石余ノ身ト成 此節 伊奈ト高遠取合在 此一戦ニ保科氏城方ニテ打死セラレケリ 筑後殿親父 弾正殿ト云也 打死ノ場所ハ伊奈ノ駒場ト云所也 是故ニ 御子 段々御取立 筑前殿ハ千石余知行 被領 頼継ノ家老ト成玉フ 頼継ハ勢強武将也 甲斐信玄ノ旗本(イ下)也



管理人訳:

 「上牧」の「野底」という所に70石の領地があった。この頃からしばらくの間、保科氏にここを治めさせた。


 高遠頼継の親はかなりの無礼な人物であった。多くの武士がこれを嫌い、皆それぞれに動くようになった。その勢力は大きく衰え、ようやく2万石程・・・になってしまった。この時、「伊那」と「高遠」で取り合いがあり、この合戦の時に保科氏は城を守っていたが、討ち死にした。保科筑後守の父親である。「弾正」という。討ち死にした場所は伊那の「駒場」という所である。


 親が討ち死にしたので、その子は徐々に取り立てられ、「保科筑後守」は1,000石の領地を治め、高遠頼継の家老となった。頼継は勢いが強い武将である。甲斐の武田信玄の旗本となった。