01王墓と坂上田村麻呂



坂上田村麻呂 王と王妃を祀る

◯◯公 [文中より坂上田村丸と思われる] ニハ其霊ヲ慰為メ霊場ヲ伊奈郡蕗原庄龍野口山ニ祀リ后ニ(辰口𧂢王山薬師尊ト称ス)
妃王ノ霊場ハ伯耆庄山手ニ祀リ后ニ(王井圡薬師尊ト称ス)
遺骨ハ王井圡村松島ノ地ニ埋葬ス 后世ニ王墓ト称ス
王居手村王墓 王出仁古ノ字起ル
當地方ハ一般王居手村と称ス 后ニ(大井出)(大出)ト称ス



管理人訳:
田村丸公はその霊を慰めるため、伊奈郡蕗原庄 龍野口山にまつり、後に「辰口藍王山薬師尊」と称した。王妃
の霊場は伯耆原(ほうきはら=ふきはら)庄の山の方にまつり、後に「王井圡薬師尊」と称した。
遺骨は王井圡村・松島の地に埋葬する。のちの世に「王墓」と言う。
「王居手村王墓」、王出にこの字(字=あざ)が使われ始める。
当地方は広く一般的に「王居手村」という字を使う。のちに「大井出」「大出」とも書く。




管理人考:
辰野町の王城山(大城山)にこんな伝説がある。朝廷から派遣された坂上田村麻呂の軍が各地を平定していた。ここには蕗原の地を古くから領していた「親王」と呼ばれた人物がいた。この人物には妃もいた。坂上田村麻呂と親王・妃は戦い、妃も弓矢を持って奮戦したとのこと。その親王の居城があった場所が「王城山」であり、後に親王の妃を祀ったのが北大出の「薬王寺」だという。坂上田村麻呂の朝廷側に服さない、既存の勢力が、蕗原の里にはあったようである。その言い伝えと春宮文書の記述は一致する。



春宮文書と、その伝承を合わせて考えると、
・「親王」の霊を祀ったのが「龍野口山」。これは「王城山」のことか。
・そこは後に「辰口藍王山薬師尊」と呼ばれた。
・王妃の霊は蕗原庄の山の方に祀り、後に「大出薬師尊」と呼ばれた。これは北大出の「薬王寺」のことか。
・遺骨は松島に埋葬した。後に「王墓」と呼ばれた。これは坂上田村麻呂(朝廷側)が造営したということか。

「王城山」「薬王寺」「王墓」「王居手」と四者が共に「王」の字を使っているところも何か意味がありそうである。
ヤマト朝廷に屈する前の有力者の存在を忍ばせる。

王城山の様子





坂上田村麻呂信濃守に
茲ニ田村丸公、信劦悉ク攻メ籏皷ヲ揚而都ニ帰リ 賞ニ依リ信濃守従四位ニ叙ス 夫ヨリ再信劦ニ来臨 伊奈郡伯耆原庄王居手ノ地ヲ愛シ 茲ニ城舘ヲ築キ国政治ム



管理人訳:
ここに田村丸公は信州をことごとく攻め、籏皷(旗鼓=きこ=軍隊)を揚げて都に帰り、その褒賞として信濃守従四位を授けられた。それにより再び信州に入り、伊那郡の蕗原庄、王居手の地を愛し、ここに城館を築いて国政にあたった。



※赤字は管理人が加えた注釈や西暦など