平出の水戸浪士の首(江戸幕末)

平出の水戸浪士の首 関連地:辰野町平出

『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆

 諏訪から伊那に入るのには嫌でも平出に入らざるを得ない。元治元年十一月、水戸から脱藩して京都を目ざして来た勤皇党武田耕雲斎ら、伊那の入口に於いて高遠藩の抵抗をうけた。和田峠で松本、諏訪藩に狙撃され戦死者を出し、血だらけの負傷者をつれて平出に宿った。人々はふるえ上がって逃げかくれた。高遠藩は幕命によって一行を阻止しようと、数百の部下をつれて川向山に陣したが、和田峠の敗報しきりに至り、ここで一戦に及んでも無駄なことを知った野本吉貞は二、三発威かく射撃をしただけで山伝いに逃げてしまった。これによって本駅安泰たるを得た。野本氏の如きは誠に良将というべきかな、と町村誌に記されている。

平出に水戸浪士の首

 先年平出で道路工事をしていた時、高徳寺のうらから余り古くない男の首が十数個、土中から出て来た。和田峠で戦死した勤皇党の仲間の首にちがいないと、人々はうわさしたものだった。元治元年といえば、明治より五年ほど前のことである。


水戸天狗党の伊那谷縦断 管理人考

 天狗党は和田峠で松本藩と諏訪藩と交戦し、夕方近くになり松本・諏訪両藩が退却した。夜中にかけて中山道を下り、まだ日が出ない時間に下諏訪に到着し、一休みした所で出発。岡谷を経由して天竜川沿いに移動し、平出宿に到着した。もう日は出ていたらしい。高遠藩は伊那の入口である辰野に野木要人の一隊を配置していたらしい。平出宿の堰山に大砲を配置していたとも。平出宿の住民はほぼ全員が二、三日前から家財を方付けるなど準備をし、辰野や沢底などの近隣の親族を頼って逃げ隠れ、戦闘に巻き込まれないようにした。天狗党は木曽に向かうだろうと予測していた高遠藩だったが、伊那谷に入る事を知り、平出宿の野木隊を撤退。沢底を通り、長岡新田、手良を経由して、天神山(伊那市美篶)に引き上げた。そこで一発(数発?)大砲を撃ち、後日の説明の為に一応反撃したと申し訳が立つようにした。それが平出宿では良将と言われ感謝されているのだろう。その他の地域では逃げ腰の高遠藩という噂が広がり、皮肉めいた歌などがはやったという。

「親骨(おやぼね)の肝腎要(かんじんかなめ)が逃げ出して、あとの小骨はバーラバラ」

「そりゃ来たと 逃げる沢底はよけれ共 うろたえ武士の(生)捕の恥」

『要』は野木要人のこと。しかし伊那谷を無駄に戦場にしなかったことを評価する文献もある。

 平出宿でゆっくりと休めた水戸浪士たちはその後、天竜川東を赤羽→樋口→小河内と進む部隊、天竜川西を宮木→新町→羽場→大出と進む部隊に分れ、松島宿で合流する。

関連項目:水戸浪士 松島宿へ

「伊那の古城」では威嚇射撃をしてから山伝いに逃げているが、他の文献では伊那の天神山まで退却してから一発、弁明の為に発射している。また野本ではなく野木のようだ。また首が出た寺も「伊那の古城」では高徳寺だが他の資料では「見宗寺」の北の畑から12、3個出たという。

 後日、幕府軍目付 江原桂介に呼び出しを受け、野木要人と岡野小平治(別働隊隊長)が北小河内に向かい、大砲は発射したと弁明したようである。

 

「今様奇談」山崎宇八郎孝輔より

箕輪町誌にある北殿宿の山崎宇八郎孝輔の手記を現代語に訳す。

 元治元年11月22日(22は誤り)高遠藩は野木要軍150人余りを平出宿に置いて防備させた。水戸浪士は和田峠での一戦も終わり、下諏訪で泊まり、岡谷で弁当をとり、平出宿に向かっていた。これを知って戦をせず、沢底村に逃げた。高遠藩士の一人、岡村元蔵は馬に乗り逃げ出すが、馬が沢底には入らず長岡村へ向かってしまった。長岡の三寿院という場所で落馬して、長岡の医師にかかり、少し良くなったので沢底村に向かい、本体と合流して高遠に帰ろうとしたが、小河内村と樋口村の間で水戸浪士に出会ってしまい、捕われてしまった。
 また、沢底へ逃げた別の何人かは長岡に下り、長岡村の人に世話になり夕飯の用意などをした。そこから長岡村の人の案内で、提灯なしに山伝いに三日町に移動し、そこから提灯を少しつけ、帰陣した。
 沢底高交という所へ出てさまよい、黒沢へ下る者、野口村畔松へ下るものもあって、誠にあわれな状態であった。