第五・小笠原信定 板垣を切り崩す


『小平物語』小平向右門尉正清 入道常慶  貞享3年 [1686]

「小平物語」 ※読みやすい様に管理人が箇条書き・()などを加えています。


第五 小笠原長時公、下諏訪城 攻めるにつき 長時公、御舎弟 民部少輔信定 下諏訪尾尻に於いて、板垣を切り崩す事 


天文十四 乙巳 歳 [1545] 、長時公、老臣 各(おのおの)を召して宣うは、一両年起己来、武田晴信、上の諏訪の城に舎弟 典厩 差し置かれ、下諏訪には家老の板垣信形を置かれる事、無念の至りなり。諏訪の城の城代を踏み倒し、そのとき晴信 後詰において、有無の勝負と仰せられ渡す。すなわち

・仁科

・洗馬

・三村

・山部

・青柳主計

・西巻

・苅屋

・原

・犬飼

・赤澤

・島立

・平瀬

右の衆、大身旗頭なり


そのほか、旗本

・神田将監

・泉

・石見

・栗柴

・宗社

・草間

・桐原

・村井

・塩尻

・大池

・二木豊後

・同 土佐

・草間源五郎 肥前 養子なり

・二木弥右衛門 豊後 実子 寿齋のこと

・丸山筑前守


このほか木曽殿、同勢にて、雑兵共に八千余騎の着到にて、塩尻を打ち越し、諏訪近くに陣を取り、板垣が城を攻め給う。すでに本城ばかりになり、危うき所に、また晴信公 後詰として上諏訪まで御出馬にて、御先衆は

・甘利備前

・両角豊後

・原

・栗原

・穴山

・小山田


御旗本は

・日向大和守

・小宮山

・菅(葛)沼

・今井伊勢守

・長坂

・逸見

・南部

都合 九千余騎の軍兵をもって、小笠原へ御向かい成られるなり。


長時公、その日、四谷という所まで御馬 上げられ、夜明けて諏訪嶺に陣を取り、同巳刻  [午前10:00ころ] に軍(いくさ)始めるなり。

晴信公の先手

・甘利

・両角

・原加賀守

・栗原

・穴山

・小山田

が兵、崩して、味方 手負い死人、大勢あるよし所へ、典厩、一隊をもって諏訪勢 相支えるなり。


長時公方の 洗馬・丸山を追い返し、敵 百五十八の首を典厩 御手へ取るなり。この時、強き働きを諏訪衆、仕る。一日に六度の戦い続きて、不切手に合い候各(おのおの)は、

・澤

・茅野

高木

・高梨

・三澤

・小澤

小平

・両角

なり。


この両角は両度まで、一番鑓を入るなり。六度目の戦に、長時公の御内、征矢野という大功の侍と、両角と、馬上にて鑓を突き合い、互いに柄を取って引き合いに、両方共に、その頃聞こえあり武功、由緒あり。近づきなば、是非勝負を眼前にて迫り合う所に、長時公の内にて

洗馬 ・三村入道 ・山部

逆心して晴信方になり 裏切をつかまつる故に、長時敗軍なり。


晴信方へ首六百余り取り、また、仁科道外 (=仁科盛能 も逆心 仕り (つかまつり)、武田方に成となん。


この合戦の日、伊那の民部信定公、伊那士(さむらい)の大将にて、

下条 ・平谷 ・浪合 ・駒場 ・赤須 ・飯田 ・溝口刑部 ・駄科惣蔵 ・片桐 ・飯島 ・宮田 ・小田切 ・上穂 ・殿島 ・向山 ・一瀬 

・浦野 ・大島 ・知久 ・御園 ・座光寺 ・藤沢 ・松島 ・大出 ・長岡 ・小河内 ・漆戸 ・有賀 ・片桐 ・樋口 ・ ・赤羽 ・高木

辰野 ・平出 ・宮木 ・神戸 ・宮所

大身・小身 都合五千余りの人数なり。


注:「御園」は今の「御子柴氏」の先祖なり。

注:高木五兵衛 北大出村 住なり。


先陣は下諏訪内 相澤・駒澤なり。ついては後陣は上伊那の内 平出に支えるなり。


小笠原信定仰せられるは

「長時公、諏訪峠の合戦に敗軍なられるのよし、只今 注進(報告)ありのよしなり。一日も早く罷立(=罷出=まかず? 出発する・その場を退く)ば、板垣信形を攻め崩さんものを」

となり。


すなわち、その日の申刻 [午後4:00ころ] に相澤・駒澤の陣を取り、竊に(ひそかに)備えを「尾尻」近辺へ出し、物合(ものあわせ?勝敗?)、聢と(しかと=確かに)見えざる所へ、板垣信形懸けて、小笠原信定に切り崩され、「小尻」まで追い討つに、板垣信形の下に 騎馬三分のニ程、百六十余り。騎・雑兵、共に七百余りの首を信定方へ討ち取るなり。すなわち、信定公、勝鯨波(かちどき)を執り行わるるなり。信形も放々(ほうぼう)の躰(てい)にて漸く(ようやく)下諏訪へ引き取るなり。


信定公、仰せられるは、

「追手、敗軍にそうらえば、搦手(からめて=城の裏門を攻める軍勢)、勝利あれども、保科弾正をはじめ、各(おのおの)晴信へ内通のよし。大出・松島も左様ありのよしは対陣に及びがたし」

とて、早々人数を下伊那へ引き取り申せられるなり。


この合戦以降、小笠原殿、もはや諏訪方へ働きたまうことならず。結句(けっく=結局)諏訪先方衆、武田殿御先を仕り、塩尻峠を打ち越し、村井あたりに御陣取りにて、長時公の居城、林の城をせめたまい、深篠(深志)の城主・萬西(坂西)次郎を追い払い、馬場民部を晴信公より籠め置き、小笠原殿をせめさせ給う。


この深篠城をはじめ、天文十七戌申中 [1548] 伊奈郡もおおかた武田晴信公御支配になる。

・保科殿 ・下條 平谷衆 ・このほか小身衆 ・上伊那衆

悉く(ことごとく)降参つかまつり、各(おのおの)御礼申し上げるなり。


そのほか、小笠原どのの為を存する衆、あるいは、強く武田へ楯を築きたる人々を、大勢御成敗あり。


小笠原信貞も上方へ牢々なり。その後、三好どの御先手にて、永禄十二年正月六日 [1569/1/6] 都六条にて合戦の時、信貞、討ち死になり。これは我らが、小笠原いにしえの信濃殿御家中にて聞き及ぶなり。小平正清、物語となん。





管理人訳:
05.「小笠原長時が下諏訪城を攻めた時 長時の弟 民部少輔信定は下諏訪尾尻に於いて 板垣を切り崩す