大田の松島陣屋(江戸1702-1757)

大田氏陣屋跡 所在地:箕輪町

『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆

 大田氏陣屋跡ーーーというのが松島の西垣外という所にあった筈だという。その西垣外を尋ねてみたが、今の国道だか県道だかの開ける前の旧道で、今の道より二百米か三百米位西に一貫した南北に通ずる道がある。伊那往還の松島の宿といったところであろう。幅二米位、用水の川が流れて、思い思いの恰好をした家並が続いているなつかしい古い町並みである。その町の南端に近い所に西垣外という家がある。旧家らしい大きな家。案内を乞うと、奥さんが広くて暗い土間に出てこられた。一画をくぎって歯医者さんをやっているようだ。

 西垣外に陣屋があるというが、”言いつたえなどありますか”と、奥さんが奥にひっこんで聞いてくれたが一向に不明。要領を得ない。例によって、南信史料をみてみると、松島西垣外にあり、東西十五間、南北二十間にして高層の地に位す、とある。ここは高層の地ではない。ここで高層の地といえば、学校のある台地より他にない。木下陣屋にもある例のように、高い所に陣屋はあり、道をはさんだ所に役所か、番所のようなものがあったと思う。小学校の校地をならすまえならその地形も残っているだろうが今はあとかたもなく、又知っている人もいない様だった。[p36] 


 元禄十五 [1702](又は十一年 [1698] )太田備中守資家の二男、大番頭太田隠岐守源の資音、知行五千石をもらって、ここに陣屋をたて、松島、福与、下寺久保、南殿を支配、代官鈴木勘兵衛ここに住む。正徳 [1711-1715] ころ米沢七兵衛交代、享保八年 [1723] に代官百姓より訴えられて鈴木勘兵衛交代となったが、疑いはれて米沢、飯田より帰参。同十三年 [1728] 太田代助の代官矢島只衛門引きつぎ、寛延三年 [1750] より太田慶治郎引きつぎ、宝暦七年 [1757] 矢島権太夫交代したが、ここを引きはらい、代官布施弥市郎預かりにて飯島附となる、とある。[p37]


 元禄年間、箕輪領も一万石から五千石に減らされ、宝暦七年 [1757] まで五十六年松島に陣屋がおかれたが、これも取りはらいとなってしまった。