第二・武田と小笠原・諏方の合戦


『小平物語』小平向右門尉正清 入道常慶  貞享3年 [1686]

「小平物語」※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。

 

 

第二 武田小笠原諏方取合の事




天文七年戌六月 [1538/6] 、


小笠原長時公、頼茂公(諏訪頼重)、相談あり。仰せらるは


「今度 甲州 武田晴信は、父信虎を駿河へ追出す。故に、国、ことのほかに騒ぎ立て、皆、一家老まで離々になりたる由、聞き来たるなり。

かかる節、甲州を踏み潰し、支配あるべき」とて、


まず小笠原殿の人数組には、

・両郡衆 ・比岐殿 ・仁科道外 ・洗馬の三村入道 ・山部 ・西巻(西牧)


或は

岐岨殿(木曽どの) ・赤澤 ・刈屋原 ・鎌田 ・青木 ・青柳 ・島立 ・犬飼 ・平瀬

いずれも大身なり


同旗本衆には

神田将監 ・泉 ・石見 ・栗柴 ・宗社 ・下枝 ・草間 ・桐原 ・洗馬五郎 ・村井


塩尻衆には

・征矢野 ・大池 ・二木衆 ・奈良井衆 などなり。


諏訪殿の人数組には

・両郡衆 ・佐久郡 諏訪の衆 ・八幡衆 ・高野町(佐久) ・穴小屋 ・小田井(佐久)

・塩名田(佐久) ・岩村田 ・長久保 ・和田 ・望月 ・乙骨 ・青柳 ・相澤 ・駒澤

・片倉 ・高梨 ・金澤 ・茅野 ・小平 ・両角 ・志賀 ・尾羽 ・十野原 ・三澤 ・高木 

などなり。


伊那衆 小笠原民部信貞大将には(これは長時公舎弟という)人数組にて

・平谷左近・浪合玄蕃・下条殿


この下衆で

・吉岡・勝谷・勝股・島田

これ大身


そのほかは、

・市岡・宮崎・野池

などなり。


・駒場・飯田・赤沢・宮田・林・片桐・小田切・飯島・上穂・大島

・溝口・一瀬・向山・殿島・箕輪殿・原田・保科殿・藤沢・中村・中沢

・木下・大泉・上古田・唐沢氏・殿村・倉田将監

・知久・座光寺・松島・大出・有賀樋口・小河内

 柴は羽場村也 ・辰野・宮木・矢島氏・漆戸左京・同庄右衛門尉

・宮所・平出・長岡・赤羽備前守・小野、

いずれも大身小身ともにかくのごとく也。


惣軍勢およそ一万三千余にて、天文七年 [1538] 戌六月中旬に、諏訪衆先陣にて、甲州へ攻め入り、韮崎の此方に陣取なり。甲州方にても、飯富兵部板垣、御先をつかまつる。武田晴信公御出馬なり。


さて、卯の刻 [朝の6:00ころ] に、諏訪より物見を懸けて、辰の刻 [朝の8:00ころ] 諏訪衆より、飯富備え掛けて、無二無三に切り崩し、釜無川を下に七八 [764m-873m] 追い返し、首三百あまり 諏訪へ討ち取るなり。この時 両角惣兵衛、二十一歳にて一番に槍を合わせ、突き崩すなり。


しかる所、晴信公の御旗本 甘利備前備(そなえ)と一(そなえ)になりて、長時公の先衆と土煙(つちけむり)を蹴り立てて、龍虎の怒りをなし、敵味方の見分けもなく切り戦うこと、四時 [8時間] ばかりなり。


三、四度の合戦に、甲州方を、諏訪衆・伊那衆とひとつになりて、小山田板垣 二頭 推し合て合戦有り。甲州方、三・四 [327m-436m] しさり、負色に見ゆるところを、晴信公、後備 五千ばかり、競め来たり、鯨波(とき=鬨をつくる=鬨の声を上げる)を作り、山川動揺して切り崩さる。これによりて、諏訪・小笠原、退散。味方 ニ千五百 討死なり。


韮崎と台ヶ原は行程四里あまり [15.7km] の内、双方多数討死なり。甲州方にても二千あまり討たれるなり。


高山にて谷間、わずかに一 [110m] 、あるいは三・四 [327m-436m] ほどあるよし。殊に釜無川、急に長流して、大石、小石、道をさえぎり、釜無川の深き所は緑碧(みどり〜あおみどり)として、浅き所は清潤にして、小石をみなぎり、沖には緑竹・草木生いしげり、左右の山つきには雲、横たわりて、苔滑るなり。このごとき難所を越えて防ぎ戦う故に、信州勢、おくれになりたり。と、古き衆の物語なり。


右の合戦のとき、初手の朝取り合いに、両角、槍を入れるなり。

青柳・尾羽・両角七郎(これは惣兵衛 父なり)澤外記・小平信正・高木・三澤

勝(すぐれ)れたる走り廻りの由、我ら父、小平円帰入道の物語なり。


その後も一年に二度、三度の合戦。

蔦木・郷原・金澤・青柳 あるいは 台ヶ原にて、甲州と年々、五六年の内、迫り合いあるのよしなり。






管理人訳:
02.「武田と小笠原・諏方の合戦」


1538年6月・天文7年戌 6月

小笠原長時諏訪頼重が相談した。


「甲州の武田晴信が父親の武田信虎を駿河へ追出した。そのために甲斐の国は大変な騒ぎとなっている。皆、家老までがちりじりになっていると聞いている。今こそ甲州に攻め入って支配するべきである」と。


以下はこの時の戦に参加したもののリストである。


まず小笠原氏の人数組は、

・両郡衆

・比岐 殿

仁科道外

・洗馬の三村入道

・山部

西巻(西牧)


また、

岐岨 殿(木曽)

赤澤

刈屋原

・鎌田

・青木

・青柳

・島立

・犬飼

・平瀬

いずれも大身である。



小笠原氏の旗本衆は、

神田将監

・泉

・石見

・栗柴

・宗社

・下枝

・草間

・桐原

・洗馬五郎

・村井



塩尻衆は、

・征矢野

・大池

・二木衆

・奈良井衆

などである。



諏訪殿の人数組は、

・両郡衆

・佐久郡 諏訪の衆

・八幡衆

・高野町(佐久)

・穴小屋

・小田井(佐久)

・塩名田(佐久)

・岩村田

・長久保

・和田

・望月

・乙骨

・青柳

・相澤

・駒澤

・片倉

・高梨

・金澤

・茅野

・小平

・両角

・志賀

・尾羽

・十野原

・三澤

・高木 

などである。



伊那衆は小笠原長時の弟である小笠原民部信貞が大将である。人数組は、

・平谷左近

・浪合玄蕃

・下条 殿


この下衆で

・吉岡

・勝谷

・勝股

・島田

これは大身である。


その他は、

・市岡

・宮崎

・野池

などである。


・駒場

・飯田

・赤沢

・宮田

・林

・片桐

・小田切

・飯島

・上穂

・大島

・溝口

・一瀬

・向山

・殿島

・箕輪殿

・原田

・保科殿

・藤沢

・中村

・中沢

・木下

・大泉

・上古田

・唐沢氏

・殿村

・倉田将監

・知久

・座光寺

・松島

・大出

有賀

樋口

・小河内

 柴氏は羽場村を拠点にしている

・辰野

・宮木

矢島

漆戸左京

漆戸庄右衛門尉

・宮所

平出

・長岡

赤羽備前守

・小野、

大身小身もこのような状態である



 合わせて、およそ一万三千余の軍勢で、1538年、天文7年 戌年 6月の中旬に、諏訪衆が先陣で甲州へ攻め入り、韮崎の先に陣を張った。甲州側も、飯富兵部板垣先陣を務め、武田晴信が出馬した。


 朝の6時、諏訪から物見をさせ、8時頃になると諏訪衆が飯富に攻めかかり、ひたすらに切り崩し、釜無川を下流に七八(764m〜873m)ほど追い返し、首を300あまり討ち取った。この時「両角惣兵衛」は21歳だったが、一番に槍を合わせ、突き崩した。


 飯富軍は、武田晴信の旗本 甘利備前と合流し、小笠原長時の先衆と土煙を上げて龍虎の怒りを見せ、敵味方の見分けもつかないような戦いを8時間ばかりも繰り広げた。


 3度目か4度目の合戦の時、諏訪衆と伊那衆はひとつにって、甲州側の小山田板垣と戦った。甲州側は3〜4327m-436m)ほど押され、負け色が見えてきたところに、武田晴信公の後備え5,000ほどが攻めてきた。鯨波(とき)の声を上げ、山・川を動揺させて諏訪衆と伊那衆を切り崩した。これにより、諏訪・小笠原は退散。味方2,500人が討ち死にした。


 「韮崎」から「台ヶ原」の4里あまり(15.7km)の間で、双方とも多数の討ち死にが出た。甲州側でも2,000あまりが討たれた。


 高い山あいであり、谷間はわずかに一(110m)、または三・四(327m〜436m)ほどしかない。急流であり、大小の石が道をさえぎる。釜無川の深い所は緑碧色をしていて、浅い所は清潤だが小石が多く、岸には緑竹・草木が生いしげり、左右の山つきには雲が横たわって、苔で滑る。こんな難所を越えて戦うわけなので、信州勢は動きが鈍くなった、と、当時を知る人は語った。


 この合戦の時、初めての朝の取り合いの時に「両角」が槍で活躍した。

青柳・尾羽・両角惣兵衛の父、両角七郎・澤外記・小平信正・高木・三澤

は優れた活躍をした。私たちの父「小平円帰入道」がそう語った。



 その後も一年に二度、三度と合戦があった。蔦木・郷原・金澤・青柳または 台ヶ原で、甲州側と5、6年の間、競り合いが続いた。