平井出牧(古墳・平安)

平井出牧・駒寄山・越道 所在地:辰野町


『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


 (平出の古ル城:現辰野中学校の)背後の丘山を超えていくと、かくれて見えない沢底(さそこ)に至る。この山を越道(こいど)と言っている。”平山にして、やせ草生ず”と記されているこの山は、昔の牧場であったらしく、駒寄山と言う。西北に駒飼い清水といわれる所があった。

 引きわけて おがやに立ちしあら駒の 見なれぬ袖におどろきやせん 宗久 [p21/22]



『平出宮ノ前・牧垣外遺跡報告書』辰野町教育委員会より  1985年


 平出宮ノ前・牧垣外両遺跡は、辰野町平出地区に位置し、古くから縄文時代、平安時代の埋蔵文化財包蔵地として知られてきました。平出宮ノ前遺跡は由緒にある法性神社に近く、また牧垣外遺跡は地名の上からも古代平井手牧との関連が考えられておりましたが、昭和48年には中央道建設工事に伴って牧垣外遺跡の発掘調査が行われ、平安時代の竪穴住居祉が発見されました。更に、牧垣外遺跡に隣接する半平蔵遺跡では、近年辰野東小学校地内において数次にわたる発掘調査を行い、古墳時代から平安時代にかけての50余基にのぼる竪穴住居祉を発掘しております。[序]

 半平蔵遺跡、本遺跡、は辰野町東小学校の校舎改築工事に伴ない発掘調査が行われた遺跡である。この遺跡からは、縄文時代中期・弥生時代後期・古墳時代・奈良時代・平安時代の住居祉が数多く発見され、特に古墳時代〜平安時代の集落は、平出の牧の成立にかかわりをもつ重要な遺跡として注目された。[p4] 

 牧垣外と言う地名は、平井手牧にかかわる地名であることは言うまでもないことである。牧垣の外と言う意味ではなく、牧の範囲の中であると言う見解を述べられたのは故一志茂樹博士である。私も同じ立場でおるところである。おそらく、牧場の端を意味していると思われる。「中村裏」と言う地名があるが、「中村」と言う地名が現在は存在していないが、おそらく「中村裏」付近か「中村」で、そこが牧主の暮していたと考えられるところである。そのほか、「ませ口 」「駒よせ」「はんへそお」「公文」などは平井手牧に関係の深い地名だと考えている。[p9] 

 関連項目:『平出宮ノ前・牧垣外遺跡報告書』辰野町教育委員会



『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より


平井手牧(古代)

 平安期に見える牧名。伊那郡のうち。「延喜式」左右馬寮御牧条に信濃国16枚の一つとして「平井手牧」と見える。京都では毎年8月15日には「平井弖」など11か牧から貢進された馬の駒牽が行われた(政事要略23年中行事八月下)。現在辰野町平出付近一帯に牧の名残を示す駒つなぎ・駒清水・ませぐち・馬越・まきよせなどの小字が残る。