03藤澤氏 源頼朝に属する



『箕輪記』宮下粛  天和4年 [1684]
※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。


藤澤氏 源頼朝に属する


 藤澤氏も義仲か戦死に及までは始終これにしたかつて戦功ありしか 義仲滅ひけれは力なく本領に帰り 頼朝にこそ属しける

 

 文治二年  [1186]  藤澤與一盛宗 諏訪の神領黒河内藤澤を濫妨せし事ありて罪蒙りぬ (黒河内は今の入の谷をいふ)


 正治二年 [1200] 越後 城資盛叛逆せり 鎌倉より越後信濃佐渡三州の兵に命して征伐せしに 藤澤四郎清親 これに加りて戦功をあらはし世にきこえたる板額女を生虜にしたるなり 世次詳ならず 


(世に傳所 藤澤氏は木曽の庶流と云 又東鏡 嘉禎年中 [1235-1237] に見えし藤澤四郎等を始祖とす 今福與の古城に鎌倉澤あり これ鎌倉ゟ移り来れば名付けしなといへども 平家物語に義仲起兵の時 藤澤氏これに従へば 彼是傳へる所 あやまりなきにあらず 想ふに木曽の族類といへるは鎌倉実記に藤澤太郎左衛門仲貞 木曽仲蔵の弟のよし見ゆ 是等か子孫とおもえるにや)




鎌倉沢古地図


管理人訳:
 「木曽義仲」が戦死するまで、藤沢氏は最後までこれにに従っていたが、「木曽義仲」が滅んでからは、なんとか本領の地に帰り、その後「源頼朝」に属するようになった。


 1186年・文治2年、「藤沢與一盛宗」は諏訪の神領である「黒河内」と「藤沢」を攻めて占領したことがあり、罪を負ったことがあった。「黒河内」は1684年現在の「入の谷」のことである。


 1200年・正治2年、越後の「城資盛」が謀反を起こした。鎌倉幕府は、越後・信濃・佐渡の兵に命じて「城資盛」を征伐させた。「藤澤四郎清親」はこれに参戦し、世間によく知られていた「板額女」を生け捕りにして戦功を挙げた。「藤澤四郎清親」の跡取りは詳しく分からない。 


 一般に伝わっている説では、藤澤氏は木曽の庶流と言われている。また「東鏡」の嘉禎年中(1235〜1237年)の項には登場する「藤澤四郎」などが始祖だとも言われている。1684年現在、福与の古城に「鎌倉沢」がある。これは藤沢氏が鎌倉から移ってきたから名付けられたのだと言われている。「平家物語」には「木曽義仲」が挙兵した時、藤澤氏はこれに従ったとある。であるので、前述の説は正しいとは言えない。藤沢氏が木曽の同族であるという説は「鎌倉実記」に「藤澤太郎左衛門仲貞」が「木曽仲蔵」の弟であるという記述がある。藤沢氏は、この子孫ではないだろうか。


管理人考:

板額女=板額御前=はんがくごぜん 城資盛の叔母である。