帯が流されて帯無川


『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


 木ノ下町の北で天竜に流れ込む川を、帯無川(おびなしがわ)という。常には水のない川でありながら、豪雨になると、地降りの水を集めて氾濫をおこす。その土砂を天竜川原に押し出して、天竜川を東に押しやってしまった。その帯無川のデルタみたいな自然堤防のかげに発展したのが、木ノ下町だ。

 帯無川とは、上流で男が下帯(褌・ふんどし)をひそかに洗っていたら、俄の出水でその一本しかない下帯を流してしまった。男はあわてて下流の方までさがしたが、とうとう見つからなかった。褌のない男はさぞ困ったことだろう。それが川の名の始まりだとのこと、面白い話でもある。[p53]

 帯無川に狭ばめられた川幅を渡船して川西と川東の連絡をなした。そこに三日町と木ノ下町が出来あがった。川風と出水に恐れおののいて昔の人も、川除け堤防を作りながらだんだんと高い所から河原におりてきた。[p53/54]



『長野県上伊那郡誌第五巻民俗篇上』 p1429-1430 「水を司る」笠原政市

国土交通省 中部地方整備局天竜川上流河川事務所 webページより

http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/flood/densho/pdf/sanko_007.pdf

 

 弘法大師が帯を流して水を封じたので、水が下の方へ流れなくなったという。

この西の山を雲が常に帯を巻いたようにかかっているところから帯巻山と呼んだ。その山から流れ出る川というので帯巻川と言ったのが、いつの間にか誤って帯無川というようになった。