羽場城(安土桃山)

羽場城 所在地:辰野町



『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


 

国鉄羽場駅の北三百米位の所に、極めてよく設計された城址が残っている。それを無残にも国鉄の線路が、はすかいに掘り割って通っている。[p30]


 文禄年中、京極修理太夫高和が飯田在城の時、この地を知行して、城所を北丿沢上にあったのを沢の南方に移して城代を置いて守っていたが、後廃滅した、と記されている。(郡記などによる)[p30/31]


 沢の門屋大槻氏方に伝わっていた「大出沢村根元記」によると、羽場村に古城がある。これは、文禄年間に京極高知氏が新たに築立した城である。所が、京極氏が慶長六年に丹波の宮津へ所替となったので完成せず、よって大手の扉などは高遠の保科氏に渡された。今高遠の二の丸の門の扉がそれである。[p31]


 諸説粉々と伝わっているが、古城という名からして、新町と羽場北大出の境に南北朝争乱のころ小笠原系の城塞があり、羽場駅の北にもあった。古城は割合早くなり、羽場城が重要になって来た。京極高知が築城を完成しかけた所で国替となって、そのまま廃城同様になったと解釈出来そうだ。ぼんのくぼと同列にみられた神戸も、古い屋なみがならんでいて、草間肥前か小笠原の子孫たちの山下(さんげ)集落かもしれない。[p31/32]


 羽場城は鉄道で掘られた以外はほぼ完全に保存されている。東西百米(五十)、南北三十五間—四十五間位、北の崖下は天竜川の淵で右手に荒神山が見える。掘幅八間、深さ四間、東側に残る土塁の高さ五、板張り九尺、馬踏三ー五尺。城地の西は高さ九—十二尺位の土手を残して城内を隠蔽する役をなしている。西の掘幅十二間、底幅二間、西から引水して城内に貯水していたらしく、以前はこの社地が水田となっていた。南大手より三十間、南に五間幅の土塁と、南に五ー七間の水が残っている。[p33]


城下町の区画残る

最後の城主柴氏か誰かが新城を設計し、前面に城下の町を計画したが、そのままになり、大坂役後には一国一城の制が敷かれたので、これらの城は自然廃城となったのである。しかし城下の区画はそのまま残り、三十五間間かく位の枡形に道は交さくしている。家東とか、若宮とか言っている。この城の面積から言えば本丸に収容の兵約二百人、三十間四方位を本丸として使うつもりであったらしい。本城の東に土塁をもった十五間位の矩形の築地がある。城に付属した、出丸か出曲輪とか言うもので、今は氏神などの合祀地となっている。[p33/34]





羽場城現地案内板



羽場城の由来


 内堀、中堀、外堀の址が今も残っている羽場城址は 今からおよそ450年前、天文 [1532-1555] のはじめに下伊那松尾の城主小笠原貞宗の四男、小笠原重次郎がこれを北の沢を濠として建てたといわれている。(現在の羽場城ではなく、その北西)


その後武田勢が伊那谷へ攻めて来た時は、小笠原長時は、旗本草間肥前守時信をもちいてよく城を守り抜いた。


続いて小笠原氏は宗氏の四男、左門から左太夫氏行 左京進行重 掃部助重氏、同じく行政政氏等に在城させていた。


その後、弘治年間 [1555-1558] 、武田氏再度の侵入があった時、政氏は遂に屈服してしまった。


そして武田氏は、制圧した後、柴河内守にこの城を守らせたが、天正10年 [1584] 2月 織田氏のために落城した。


織田氏は、文禄年間 [1593-1596]京極修理太夫高知が飯田に在城していた時、羽場城には城代を置いて近隣をおさめさせていたが、間もなく廃絶となった。

在城は約50年となる。


明治43年 [1910] 、秋葉神社を合併した手長神社を新設して今に至っている。