上古田



『下伊那郡史 第四巻』 昭和36年 [1961] 出版

※赤字は管理人の追記。読みやすい様に箇条書きなどを加えています。


古老の語る所によると、上古田の開発は戦国以前とは思われない。

それ以前は深沢川上流左岸の山際「金原長者」の伝説のある「金原」にある 二十戸位の小村であったとの事である。

なんでも鎌倉以前の事である。


今の聚落より 帯無川を一里 [3.9km] ほど登った「鳥帽子岳」の中腹に「中山御堂」があった。

本尊は行基作の十一面観音で、鎮守の白山権現は聖武天皇の御代 [724-749] 行基の弟子が隠棲修法を行ったところで、また大同年間 [806-810] 坂上田村麻呂は、武運長久を祈って御堂を再建したが、戦国時代 [1467-1590]  武田・織田の兵火のために焼亡したが、その遺跡からは、長方形に規則正しくならんだ礎石が発掘せられている。


後、里人はその山伏堂を麓にうつして再建した。それが現在の曹洞宗「正全寺」(もと正国寺)であるという。


「中山御堂」を半里 [1.96km] ほど下った帯無川近くの山裾に

・駒よせ

・ネギ畑

・畑の平

など呼ばれる所がある。「畑の平」は二町歩 [6,000坪] ほどの平地で、もとは畑であったが今は森林となり、樵夫(きこり)の外 めったに人の入らぬ山中であるが、鎌倉以前 山御堂に詣でる人の多かった頃には、人家もあり 相当賑わった。


富田の「三本松」からの古道は此の地にいたり、山裾を北行 正全寺裏あたりで、深沢川を渡って「金原」から「下古田」へと通じていた。[p640-641]







『箕輪町歴史行脚』小川竜骨  昭和54年 [1979] 出版

※原文は詩調。読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。



延喜の古道
延喜古道の開通に伴い、文化、一早く開けし村よ、上古田。



古田神社
神恵(しんけい)、天と地に満つる。古田神社の「み祭り」に、湯立ちの神事、げに(本当に)床し(ゆかしい=昔がしのばれる)

過ぎし日、不慮の災難に全焼したる神殿は、諏訪の名工「和四郎」が精魂こめし作なりと。

其日は何と悪日(あくにち)ぞ。惜みても尚、余りあり。



正全寺
元和二年 [1616] に創建す。伊那諏訪八十八ヶ所の二番、保寿山 正全寺。霊験あらたかに在す、十一面の観世音。衣に縋る(すがる)群生(ぐんじょう・ぐんせい=あらゆる生き物)に慈悲を注ぎて、四(し)百年。



古田焼
時の流れに乗り切れず、遂廃されし「古田焼」。窯場、空しくなりぬれど、今尚残る作品は技術に頭(かしら)下るのみ。



俳人 鹿乙雲外と楓山鹿残
俳人「鹿乙雲外」や「楓山鹿残」文潮達ち。花月に瓢(ひさご)かたげつつ、十七文字を競いけん。



石碑
村の三叉路、十字路に、「二十二夜塔」「三夜塔」。

(月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。文献史料からは室町時代から確認され、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられる。十五夜塔も多い。群馬・栃木には「三日月さま」の塔も分布しており、集まる月齢に関しては地域的な片寄りもみられる。)


「六字名号」(南無阿弥陀仏のこと)「寒念仏」(僧が寒の30日間、明け方に山野に出て声高く念仏を唱えること。のちには俗人も寒夜、鉦(かね)を打ちたたいて念仏を唱え、家々の門前で報謝を請い歩いた。)


「庚申塔」や「芭蕉の碑」


仏閣巡る信者等に、苦労ねぎらう、真心の篭れる(こもれる)湯茶を振舞いし接待。供養塔、古りぬ。



馬頭観世音
幾体あるや、数知れぬ、路傍の馬頭観世音。家計支えし飼い馬の霊を弔う。念願に愛隣の情、篭るなり。



人形芝居歌舞伎
伝わる郷土芸能は「人形芝居歌舞伎」など。聞けや安永 [1772-1780] 始め頃、淡路人形遣いなる「六三郎」の指導にて、此の地に広まりしとかや。町の無形の文化財。



古い地名
何百年か呼び馴れし字
・「古屋敷」
・「里林」(さとべえし)
・「山の田」
・「藤内路」(とおねじ)
・「高の洞」(ほら)
・「西木戸」
・「乗り替え」
・「横まくり」



土器
土器の破片を見付け畑




罠場(わなば)に深き落とし穴。猪(しし)突き槍で仕止めしと、古老言へらく熊捕れば、七日七夜を山荒るる。



古い地名
・山懐(ふところ)の「庵林」(あんべえし)

・花より「団子平」(だんごたいら)よし

・「円仏」(えんぶつ)「引地」(ひきじ)抜けがらや。

・「前山御堂」「山御堂」、礎石を残す山の上。



霊の口寄せ
霊の口寄せ、巫女屋敷。忍びよる霧、冷々(ひやびや)と、番場垣外に夜を徹す。



金原長者伝説
掘れど当らぬ銭かめや、金原長者伝説は童の夢を育て来ぬ。



役行者
地蔵草庵 [草葺きの小さな家] 境内に役行者 [えんのぎょうじゃ] の石像や。



淡島神社
淡島神社 木曽鎮(しずめ) 神社古銭も出土して深き茂りに覆わるる。

底透く清水こんこんと、夏を余所(よそ)なる青嵐 [あおあらし=初夏の青葉を揺すって吹き渡る、やや強い風] 

今はなけれど、傍らの池には仲の睦まじき夫婦鴛鴦(おしどり)来しことも。



デエラア坊
デエラア坊の足の趾。恐怖に呼吸(いき)を殺しつつ、巨体想像してや見ん。



深沢川の渓流
深沢川の渓流に、詩情をそそる夕河鹿 [ゆうかじか=夕方に見かけるカジカ・河鹿=鳴き声が鹿に似ている蛙=カジカガエル] 。そぞろ歩けば涼を呼ぶ。



稚児岩
けわし、深沢山御堂。殿の所望に居合わせし稚児が、猿(ましら)[ ましら=神聖視された日本猿 ] の如く登り詰めたる岩頭(かしら)。殿の機嫌も日本晴れ。因みて、其の名「稚児岩」と。



鳥帽子前山
鳥帽子前山、雪化粧すれば、里人押し並べて [ おしなべて ] 大根菜、引き急ぐ。



風切り地蔵尊
頭上を群れて渡り鳥、凄き魔の風、除け給ふ。戌亥 [ いぬい=北西・北西からの風 ] 風切り地蔵尊。



遠き、縄文土師 [ はじ=土器や埴輪を製作した人 ] 時代より永住の地と定め、荒野拓きし上古田。さざれ岩、巌(いわお)[ 高く大きな岩 ] となりて、利澤 [ りたく=恵み・利益 ] は苔のむすまでも。







『金原長者の話 その他』 伊那の伝説 岩崎清美 昭和8年 [1933]

※赤字は管理人の追記。読みやすい様に箇条書きなどを加えています。


長者の話としては まだ次のやうなのがある。

中箕輪村の上古田に 昔 金原(かねはら)長者と云うのがあった。財宝を山のやうに積んで居たと云ふが、詳しい話は傳はって居らぬ。

今その屋敷跡を「金原」と云ひ、長者の名前を「唐澤杢之亟」(からさわもくのじょう・・・か?)と云ったとも傳へられて居る。


又 同じ村の富田に 萬福長者が一人あって、諸国の長者と同じやうに宝競べをしたと云ふ話が残っている。


此の長者の米倉が一朝にして火を失して焼け失せた。その時の焼け米を埋めたお云ふ米塚が残って居て、今でも掘れば焼き米が出て来るそうである。


[p252]  [国会図書館デジタルコレクションでは p137]






『いな谷ネット』 箕輪町郷土博物館「伝説の舞台を訪ねて」

金原長者が暮らしていたという伝説がある赤ソバの花が咲く「上古田金原」では、金原長者の娘が富田の米塚長者の家に嫁いだときの婚礼の話をし、パネルを使って紙芝居風に伝説を紹介した。http://inamai.com/sp/ictnews/detail.jsp?id=16458






上古田の古地名

http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview/pageview.html#page_num=886