諸侯の休泊地 御茶屋(江戸)

諸侯の休泊地 御茶屋 所在地:辰野町



『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


 橋(平井大橋)を東にわたって左手に入るこの辺に、御茶屋という旧蹟がある。寛永のころの領主鳥居忠春の建築、御茶屋と号し、諸侯の休泊地となすと。寛政の初めに至るまであった。

 又の書によると、これは領内収米取扱所を云うのであって、寛文のころ鳥居氏高遠在城の時に建てたものであると記されている。この道はやはり有賀峠にまがりながら登っていく。ある人の歌える、

吟歩してわたる天竜渡口

清風一夜にして萩蘆の秋

東山月出ずれば四面開け

百尺の金竜 波に踊る

さはあれ人は知らずや

幾百霜 橋頭を抱きて立てる人を

人柱の平出大橋は辰野と平出との境にある橋だ。[p14]






忠春の暴政

 忠春は兄忠恒の時代に失った24万石の所領を取り戻すため、寛永15年(1638年)9月と慶安2年(1648年)9月の増上寺の警備、寛永16年(1639年)8月江戸城西の丸石垣の修理、寛永19年(1642年)4月の江戸城御留守居役と西の丸大手門警備、明暦元年(1655年)の朝鮮通信使の負担、明暦3年(1657年)の大坂加番、他にも連年のように各所への贈物などをしているが、わずか3万石の小藩がここまで多くの幕府御用を担当することは財政に大きな影響を与え、百姓が木曾に逃散する事態を招いた[1]。このため高遠藩は無主の耕作地が増加し、土地は荒廃して忠春は貢租を得ることを狙って明暦2年(1656年)から2年かけて検地を行なっている[1]


 忠春自身も茶屋遊びを繰り返し、毎年5回から6回は上伊那郷平山村(現辰野町)のお茶屋で奢侈の限りを尽くし、大酒を飲み、侍女の膝を枕にした[3]。お茶屋に来る時は領民に必ず出迎えさせ、献上物を出させて村役人が必ずご機嫌伺いをさせるようにした[3]。また忠春配下の100人余りの従者も威張り散らして食事用の米に藩への納入米として一時保管している郷蔵から出させて食事とした[3]


引用元:長谷川正次『シリーズ藩物語 高遠藩』P29 30 31





『かわらんべ』天竜川総合学習館 天竜川 川の旅

http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/kawaranbe/series_v/series_v_2013.html


第9回 高遠城主も遊興した上平出の坪梁 広報誌かわらんべ127号掲載分


 鶴ヶ峰の山裾を流れる天竜川のそばに石碑があります。「朝光に 簗場の名残り すすき噴く」。昔、ここには「新梁」と呼ばれる梁があったそうです。この梁は17世紀にはすでに登場し、高遠城主鳥居忠春は好んでここで遊興したようです。


上平出の新梁


坪梁の記載は「伊那路」21巻10-12号(1977)の「天竜川特集」を参考にし、梁の図も酒井十四男氏の「辰野の漁労(二)」から引用した。

(天竜川総合学習館ホームページより引用)

上平出の新梁石碑

(天竜川総合学習館ホームページより引用)


 辰野の梁では、主に諏訪湖から下ってきたウナギが漁獲され、秋雨時、多いときにはウナギだけで一日に二百貫(約750kg)もとれたようです。そんな上平出の梁も全盛期は大正4・5年までで、その後、下流の大久保堰堤・南向堰堤や、上流の西天竜頭首工・釜口水門の建設などによって、遡上する稚魚と降下する成魚が減少し、昭和初期に約300年の歴史に幕を閉じました。
 

先の句にはその悲哀の情景が詠み込まれています。


【梁:やな】木・竹でつくったスノコ状の台の一部を川に沈め、流れてきた魚をとる漁法 





関連:平出大橋の人柱