田中城(戦国)

田中城 所在地:箕輪町三日町


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2007年7月撮影


『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


 頼親は信玄に一応は降参したものの深志の小笠原氏とは義兄弟であり、いつ甲州のためにやられるか分からない不安もあって天文二十年 [1551] からの二年間、長時の中塔(南安梓)籠城に加わっていたが、ついに守りきれず二十一年の十二月晦日の夜 [1552/12/31] 、長時らと共に逃げて越後にいってしまった。のち長時らと共に京に出て、遠州、伊勢など放浪したのち三好長慶----もとは阿波の人、京に上り将軍の首のすげかえを自由にやった人間----これにたよっていたが、武田没落をきいて箕輪に帰ることが出来、天竜川の河原に平城を築いてそれに入った。[p47/48]

 頼親、天竜河原に築く 伊那谷に平城というものは極少ない。[p50]

 

 小笠原氏も松本を保てなくなり、安曇の中塔に籠城したが、 天文二十一年 [1552] の大晦日に藤沢氏と一緒に越後に逃げてしまった。のち、当時の実力者たる京都の三好長慶に身を寄せたが、世は下刺上の世だ。臣下の松永久秀らに長慶も追われると小笠原長時は越後に帰り、藤沢頼親は故里に帰って故城の福与城には入らず、天竜河原の真ん中に田中城を築きそれに入って、武田氏に属していた。箕輪田中城とも云う。三面が平地の沼であり、一面は天竜川に画していた。三好長慶の死んだのが永禄七年 [1564] 。臣下の松永久秀が実権をにぎり将軍義輝を殺す様な事件があり、頼親も安住出来なくなり、信玄に膝を屈して帰って来たのだった。

 その後十年位して信玄は死去。その子の勝頼の支配をうけていたが、天正十年 [1582] 、武田没落。頼親は信長に臣礼を尽して田中城にいたが、六月信長が本能寺にて殺害され、天下は又、争乱の時となったが、頼親は武田の縁故であり、小田原に本拠をもつ関東の大勢力北条氏と結んで、夢よもう一度とたくらんでみた。その時、北条氏は佐久から諏訪に入り、徳川は甲斐から伊那に手をのばしていた。屋名(保科)はもともと飯田の城主であって、一旦は高遠の仁科五郎と共に織田の軍に向かう筈であったが、織田軍に手向かうことの不利をさとって、攻撃軍の織田に内通して火攻めをすすめた。高遠は敢えなく陥落。保科はうまく脱出し、松本あたりでブラブラしていたが、弟の兵を借りて下条氏の守る高遠城を奪取した。保科は徳川方であったために、北条方である箕輪の藤沢氏に徳川方に帰順する様にすすめたが、藤沢氏は応じない。そこで攻撃をしかけて三日間の激戦ののち、遂に奪取してしまった。天正十年 [1582] のことである。[p51/52]


 空城となった田中城も慶長六年 [1601] 、小笠原秀政が飯田城主のとき、田中城へ家中のものを移し、箕輪領を管理させたが、のち慶長十七年 [1612] に田中城から木ノ下に移り、木ノ下陣屋の始めとなった。[p52]


 北殿駅と木ノ下駅の中間、天竜川の河原に、雑木の生えた塚がみえる。箕輪田中城の址という。巾一間、長さ二間ほどの小丘でつたかずらが生い繁り、何の氏神か石の祠が南の空に向って立っている。古記録によると、東西三 [330m] 、南北三 [330m] 、東は天竜川にのぞみ、三方は深入りの沼田である。外堀、木戸口、城安寺、古町、町田等の名が残っていたが、今は耕地整理で一律一遍の水田地帯となり、水路と農道が東西に走っている。鎌倉の古城は東北天竜川をへだててはるかむこう。真西は中込城、北殿の橋も遠くにみえる。

 ここに城を構えたならば、下手な山城よりは、よほど堅固な城が出来る筈だ。舟か橋がなければ渡ることが出来ない。身の丈より高い葦が生い茂った沼田の中に迷いこんだら、戦争どころの騒ぎじゃないだろう。古城の土手は低いがその上に立ってみると開田された田は広く、北は辰野から南は目のとどくかぎり続いている。天竜川は東におしやられ、国道は西の段丘の裾。車が細かく往復している。田中の古城はやはり唯一つ野中に取り残されている。歴史は淋しいものか。[p52/53]


(藤沢氏が)田中城に平城を築く時に、城安寺というお寺が河原の付近にあった様だが、田中城も築城してから二十年位で藤沢氏が亡びて空城となり、従って寺も町も、自然にさびれていくことになった様だ。木の下町に陣屋が移るまでに、それから約三十年位はこの田中が地方の中心地であったらしい。[p54]




『現地案内板 箕輪町教育委員会』より



箕輪町指定史跡

 箕輪町文化財保護条例第三条の規定により左記のように指定する

一、種別 史跡

一、名称 田中城跡

一、所在地 箕輪町大字三日町九九一番地の三

一、指定年月日 昭和五十二年五月九日

記 天文十四年(一五四五)武田信玄との戦いで、福与城を開場した藤沢頼親は、その後三好氏をたよって京都に移った。三好氏の没後旧地である箕輪にもどり、この田中城を築城したと伝えられる。(伊那温知集による。)

 この田中城は、伊那谷ではめずらしい平城で、築城時は、東の天竜川や、周囲の沼地を防衛の中に組み入れたものであったと考えられるが、現状は土塁の一部を残すのみである。

 その後、飯田の小笠原氏の箕輪領統治の際には、田中城に陣屋が置かれた。

箕輪町教育委員会


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2007年7月撮影


関連項目:福与城

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2007年7月撮影 綿半はまだない