山岳信仰が起源 澄心寺(平安)


『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


 上棚部落に入って、東の山際に登ると、そこに澄心寺(ちゅうしんじ)という古刹がある。この寺は、勝間の竜勝寺の末寺ということになっているが、元は恐らく、天台宗かの密教関係のお寺だったと思う。このお寺の奥の萱野の峰つづきの山頂を、不動ヶ峰という。奥の院関係の名前らしい。その下の中腹にあるのが、遠見城の城址である。[p54]


澄心寺は何回か、山のなぎ抜けにあって建て直したというが [p54]


人によると長岡から移った寺だという。中絶した事があるかも知れないが、元々は山岳仏教の形をもった寺があったにちがいない。長岡の台地にある石の地蔵様も一緒に上棚へ移ろうとすすめてみたが、地蔵様は、” わしは尻が重いから移るのは嫌だ。ここに居る ” とて、いまだに長岡の露天に坐っていらっしゃる、という。[p54]


 澄心寺の境内に、仏古址あり。この不動尊はもと、遠見城の不動尊堂にあったのを、福与城の落ちる時だろうが、この山城も没落。この時本尊様を失なってしまった。二百年も経てから平三郎という村人が、この地を掘った時にこの尊像があらわれたのを澄心寺に一応祀ったが、元禄年間 [1688-1704] 、板倉頼母頭重相(しげただ)領地の時にこの尊像を今の放光山大仙庵に安置したのだそうだ。[p56]


 奥の院があり、不動尊を祀るお寺はもともと、密教関係のお寺だったと想像される。殊に天台宗関係の寺であったろう。澄心寺は禅寺の寺だが、武家が政治の中心力をなして来てから禅宗の勢力が強くなって、祈祷仏教たる密教もすたれて、意志の鍛錬を重視する禅宗が流行するようになって来た。奥の院をもつ山岳仏教の形をもったこの寺も、起原は千年以上前の平安時代にさかのぼると考えられる。[p56/57]




「伊那路 第14巻 第12号」p24-25 「夢枕に立つくらがり沢の大蛇」

 国土交通省 中部地方整備局天竜川上流河川事務所 webページ 災害伝承カルテ No.29より

http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/flood/densho/pdf/sanko_007.pdf 


夢枕に立つくらがり沢の大蛇 

「澄心寺の黙仙和尚の夢枕に妙齢の美女に化身したくらがり沢の大蛇が立ち、 天に昇るために山から天竜川へ移動し千年住まなければならないと言った。大 蛇は、澄心寺や下の田畑村人には決して被害を与えないと誓い、沢をくだって通させてくれと一生のお願いをして帰った。夢からさめた和尚は、くらがり沢の入り口に石を伏せ読経を唱えて大蛇を封じ込めた。その1週間後、大蛇は荒れ狂って南沢へ抜け出したので、澄心寺は壁をぶち抜かれ、三百六十畳の畳の上に五尺から九尺の甘酒のような泥がなだれ込み、下に続く田畑も大きな被害を受けた。」