小笠原の田中城跡陣屋(江戸1601-1612)

田中城跡の小笠原の陣屋 所在地:箕輪町


『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


 昔の上伊那といえば、三峰川と小沢川を境として北を云う。戦国の混乱も武田で一掃され、ついで織田のために又一掃されて伊那の谷もやっと安堵して、一応は飯田領の支配となった。慶長六年 [1601] 小笠原秀政飯田に居て、箕輪領も支配していた。初めは、家臣を田中城に派遣していたのを、田中城は不便だし、水害などあって具合が悪く、木ノ下に移って陣屋を置いた。慶長十七年 [1612] のことである。[p39/40]


 飯田にいた小笠原秀政の家臣二木右衛門、四百石の禄をもらい、以下百石の禄のもの三十二人、その他衆小人多数、木ノ下に移し、町屋敷二町四反一畝五間の城地を構え上ノ城といった。小笠原秀政は十八年 [1613] 松本へ移り、一年おいて元和元年 [1615] 、大坂夏の陣にて戦死した。[p40]


 空城となった田中城も慶長六年 [1601] 、小笠原秀政が飯田城主のとき、田中城へ家中のものを移し、箕輪領を管理させたが、のち慶長十七年 [1612] に田中城から木ノ下に移り、木ノ下陣屋の始めとなった。[p52]



『現地案内板 箕輪町教育委員会』より


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2007年7月撮影

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2007年7月撮影

箕輪町指定史跡

 箕輪町文化財保護条例第三条の規定により左記のように指定する

一、種別 史跡

一、名称 田中城跡

一、所在地 箕輪町大字三日町九九一番地の三

一、指定年月日 昭和五十二年 [1972] 五月九日

記 天文十四年(一五四五)[1545] 武田信玄との戦いで、福与城を開場した藤沢頼親は、その後三好氏をたよって京都に移った。三好氏の没後旧地である箕輪にもどり、この田中城を築城したと伝えられる。(伊那温知集による。)

 この田中城は、伊那谷ではめずらしい平城で、築城時は、東の天竜川や、周囲の沼地を防衛の中に組み入れたものであったと考えられるが、現状は土塁の一部を残すのみである。

 その後、飯田の小笠原氏の箕輪領統治の際には、田中城に陣屋が置かれた。

箕輪町教育委員会


関連項目:福与城

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2007年7月撮影 綿半はまだない