「竜ヶ崎の合戦」(戦国)1545





『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年 [1964-1969] 執筆


 横川が辰野に出て小横川と出会う所に、城山、又は竜ケ崎城というのがある。辰野高校の北にあたり、宮木の方からみるとこの山は三角形の独立した山の様にみえる。[p22]


 武田が、伊那侵略の橋頭堡として全力をあげて占領した荒神山は 確保してみたが、実は、つい裏手の宮所にある竜ヶ崎は、小笠原の軍勢が固く守っていて、下手に南進するとたちまち後を遮断されるおそれがある。伊那衆が総力をあげて守っている所の福与鎌倉城を攻撃するためには是非この小野、松本に通ずる要衝たる宮所を占領することが絶対必要だった。しかし信玄部下の勇将たる板垣信形(信方)が総力をあげて攻撃してみたが、どうしても落とすことが出来ない。とうとう今川義元より援軍を借りて来たのが五月二十二日、竜ヶ崎をやっと占領したのが六月一日のこと、ここが落ちて十日目にとうとう福与鎌倉城から和議の話が出て事実上落城することになった。天文十四年 [1545] のことであった。

 だから、この小さな山城である竜ヶ崎が如何に大切な要害であったかがわかる。宮所の部落から八十米位の高さであり、本城というべき城地とても孤立して、大事を支えきれる程の規模のものでない。それなのに、甲州の大軍を引きとめて、今川の援軍によって十日近くも攻められてやっと陥落させられた竜ヶ崎は、とてもこの小さい城ではなく、恐らく天竜川西岸一帯が要塞所となって兵を移動しながら甲州軍を防衛していたにちがいない。その指揮する本拠が竜ヶ崎辺であったのだろう。武田も諏訪と荒神山を手に入れたといっても、下諏訪も岡谷もまだ掌握していなかった。小笠原軍は塩尻峠から山つづきに辰野の大城山までの要地を確保していて、絶えず敵の動静に応じて機動戦をやって敵を喰いとめていた。[p25/26]

 塩尻峠を武田にとられたのは天文十七年 [1548] の七月のことであった。長時らの守っていた竜ヶ崎城は北の方は小野、東は大城山、南は伊那一面の連絡点としての中心点である。[p27]




『高白斎記』天文13年 [1544]

「辰野町資料 第113号 三浦孝美」より


同(天文十四年  [1545] 五月大 壬戌 二十一日節 [1545.5/21] 、

相州(今井信甫?)・羽州(小山田信有)、竜ヶ崎に動く。


二十二日 亥未 [1545.5/22] 、駿州(信形)松川より御加勢。

六月大 壬辰 、板垣駿河守、竜ヶ崎落城す。


管理人注:今井信甫=いまいのぶすけ=武田家家臣で「相州」と呼ばれていた






関連項目:大城山荒神山の戦