羽場の古ル城(南北朝〜戦国)

羽場の古ル城 所在地:辰野町


『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


 神戸部落の東南、北沢の崖の上に古ル城と呼ばれる古戦場がある。南は深い沢で北にも涸れ沢があり、三方深い谷にかこまれている。小笠原長時の旗本草間肥前の住居跡と言われ、この南の北沢を南に越えると羽場へ出られる。[p30]


 郡記などに依ると、甲州源氏小笠原が、伊那の地頭になり貞宗の時、貞和年間(北朝、尊氏のころ)松本の井川に移って信濃の守護となった。その貞宗の四男にあたる重次郎というのが、羽場に移り、ここに築城して羽場姓を名のり、代々この地を相続してきたが、弘治二年のころ、武田軍の侵入にあって没落してしまった。そのあとは柴河内守が入っていたが、天正十年、織田氏の侵入にあって没収された。降って文禄年中、京極修理太夫高和が飯田在城の時、この地を知行して、城所を北丿沢上にあったのを沢の南方に移して城代を置いて守っていたが、後廃滅した、と記されている。[p30/31]


 別記に依ると、小笠原宗氏の四男左門羽場が築城し、その子左太夫氏行、左衛門尉行長、左京進行重、掃部助重氏、同行政に至り、弘治年中、武田侵入のとき降りて随臣す、という。[p31]


 また、沢の門屋大槻氏方に伝わっていた「大出沢村根元記」によると、(略)この城(羽場城)の北、北丿沢をへだてて柴河内守の居城の跡がある。弘治年中まで、ここに居住していたが、その子孫は保科氏に属し、物頭格となり、五百石を賜り今もそのまま残って居る。ならびに羽場付きの郷士中谷杢左衛門と申す者、五百石を賜り物頭格にてそのまま子孫相勤め居る、とある。[P31]


 明治九年県令に報告したものに依ると、天文年中に羽場に小笠原十二郎居住の跡あり。又、新町耕地北丿沢の上に草間肥前居住のあとあり、と。[p31]


 


管理人考


 県令に報告した「小笠原十二郎」が、郡記にある「小笠原重次郎」と同一人物なら、天文年中というのは1532〜1555なので時代があわないか。または、武田侵攻直前まで居住していた、重次郎の何代か後の人物ならあり得るか。


管理人考


 羽場の古ル城を築城したという小笠原重次郎には次の様な資料がある。

「南北朝時代には信濃小笠原氏の一族の大多数は北朝に属したが、小笠原貞宗の四男で羽場城の築城者とも伝わる小笠原重次郎など、一部に南朝に属した者もいる。」Wikipediaより

 羽場上の鞍掛での南北朝の合戦について「伊那の古城」は次のように書く。

羽場上の鞍掛で一と合戦があった。諏訪の神氏の一統と多分草野一統との戦いらしく、古城の南対岸の一帯の地で、この辺で、北朝武家方の小笠原と宮方との争奪戦がしばしばあったらしい。」

 これを見ると大体の小笠原は北朝であったようだが、その中でも羽場の古ル城の築城者の重次郎は小笠原でありながら南朝に属していたとのこと。羽場の古ル城の谷向かいの鞍掛で南朝側と北朝側が合戦をしている。

小笠原重次郎が羽場に築城してから「羽場」姓を名乗り出したとのこと。ちなみに全国で一番「羽場」姓が多いのは長野県。ルーツを調べると「現長野県である信濃国伊那郡が起源(ルーツ)である」とある。

関連項目:羽場鞍掛の一と合戦