樋口氏

本拠地:辰野町沢底日向(ひむか)


『伊那志略』蕗原拾葉 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1141910/10?tocOpened=1

樋口氏墓

在 樋口村

碑面○曰(いわく) 樋口筑前守末葉 其他文字消滅難讀 不詳 其為何人也

土人曰(いわく)、樋口次郎兼光墓、按(按ずるに)兼光権守兼遠之子

・・・・・続く



『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆

この荒神山は伊那谷の入口にあって、位置も展望もいいので、各時代に必ず戦略的に利用されてきた山であった。この山の東方に、樋前の城址と呼ばれる所がある。明治初年に報告された文によると、東西四囲が判然とはしない、そして建築年月もわからないが、只松一本在するのみで、寿永年中(義仲挙兵のころ)樋口次郎兼光が城館を備えていたという。この兼光の父は信濃の大じょう兼経と言って、木曽に住まって義仲に属していた。[p16]


兼光、平家討伐に大功

 義仲が旗を挙げたが、兼光は、弟今井兼平と共に四天王の一人といわれた猛将で、北陸の平家討伐に大功をあらわした。義仲は破竹の勢をもって京都に侵入し、平家を追って一度は天下をとったが、治安や人心の懐柔に失敗し粟津ヶ原で戦死してしまった。その時、弟今井兼平も討死してしまった。兄の樋口兼光は捕らえられて京都で誅せられたが、六歳の遺児は助けられ、樋口左近兼重の名を与えられ、建久八年、鎌倉の頼朝に召され、旧領(平出の地)を安堵された。その子、長門守兼朝、光久を経て、大学頭光頼に至り、矢沢に移り大石城を築いた。これは応仁元年(一二九三)北条貞時の時であるという。[p16/17]

 

その城に九代住まっていた、豊前守光忠、長門守光時、大和守光平、和泉守光家、筑前守光安、光忠、孫、光信の時に、大石城を引き払って、東方沢底(さそこ)の日向村に変わり住まっていた。その子、将監(しょうげん)光守は伊那十三騎の一人として、高遠の保科正直に仕え騎馬大将であったが、その子左近光教は、七郎右門と称し、保科正之高遠三万石から山形二十万石に移封の際、これについて山形に移った。保科正之は三代将軍家光の弟にあたる故、姓も松平と改め、のち会津二十三万石の大々名となった。(「荒神山社殿記」)[p17]


大石城

 旧朝日村の東部の山水を一つに集めて西に流れ出してくる川、沢底川。今は荒神山の丘の北を流れて天竜に入っているが、以前は赤羽の南を流れて荒神山の東から天竜に流れていた。当時の流れの状態は、国鉄羽場駅の辺から東北をみるとよくわかる。

 大石城はこの川(矢沢)を隔て荒神山と対立していた。社殿記の中に、荒神山と大石城との間は船でわたったとあるそうだが、天竜川がここを流れていたのではなくて、沢底川の氾濫の時のことを言ったものだ。工事をした時に大石は勿論、大木が埋れ木となって何本も出て来たとは赤羽の古老の話であった。天竜がここを流れていたとすれば、万年を数える前の事であろう。大石城の名もこの川の石をさして言ったものだろうとは、やはり古老の話であった。ここ樋口の魅力は川岸の平出と共に、木曽側は、穀倉として確保する必要があった。[p17]

 

 鎌倉も元寇の事件で世相騒然として来た時に、荒神山の山城(さんじょう)と共に大石城を造ってこの地の固めとしたものであろう。それが約二百年位つづいたようだが、南北朝の終りのころ民間に降って朝日村の東方沢底川のほとりの日向(ひなた)に隠棲し、郷士となり高遠に属していたという。[p18]  


木曽殿の穀倉樋口

 伊那を勢力のうちに入れた木曽は、一番便利な辰野辺に有力な将をすえ食料補給で後顧のうれいをなくしたものだろう。と、もう一つは、諏訪、甲州への関門として重視したものと考えられる。樋口氏の樋前の館址が明瞭でないというが、この近在に館を構えて、木曽と絶えず関連していたのだろう。

 平出から赤羽を通り樋口から南の小河内に通ずる竜東線の東、荒神山の東に、小高く林をなした墓地がある。ここを樋口兼光の墓所と言っている。ここを樋前と想定している人もあった。城の形はなしていないが、館があったかもしれない。樋口といい樋ノ沢という名がこの付近にあるので、樋口部落を見おろす高台に、城館を構えていたと言っても不思議ではない。[p17/18]  

 

 町村誌の記録による樋口長門守光久、己が城館の大道より卑下なるを以て大石城を築いて移るとある。樋前城は大道より下にあるともとれるし、又、大道に対してみすぼたしいともとれる。[p19]


沢底に樋口氏子孫が安住

 沢底の日向は南面した丘にあって、住居地としてその名の如く、日むきがよく、水の便利な安住出来る谷間の静かな村である。ここから丘山を北に超えると割合簡単に諏訪に出られる。この沢は出水など利用した古田が段々とならんでいるが、この古田のうちで、ここだけは絶対に、イモチの発生しない所がある。西日のせいかな、風のせいかな、と村人は不思議がっていた。

 猛将樋口兼光の子孫たちも、やっと安住の地に落ちついたというものか、館址らしい所が残っている。西南に流れていく沢底川は、せまいながらも、おだやかでそして土地も肥えている。 [p18]


 天文十六年、大石城主筑前守光信の時に、武田の臣、秋山伯耆馬場民部に攻められ降参し、十八年に城をこわすとある。前記の荒神社殿記とはちがうが、武田の伊那侵略の時この辺で戦があったから、大石城も城砦として利用されたと考えられる。

 城址は東西六十間、南北五十間と記されているが、堀内は四十五間に四十間位、南と北み郭があったらしく全部水田となり、西端は崖となり七、八米から十米位下に矢沢が流れ、二十間の川堀の西か荒神山となっている。一本残る堀は大部埋められて、南端に数間残っているだけである。[p19]


 荒神山との間を船で渡ったといわれる堀川も、今は一尺にも満たない流れとなっているが、この川の上流にはまだかなりの水量があり、土地の人は”東天竜”と俗に言っているとのことであった。[p19]





『小平物語』小平向右門尉正清 入道常慶  貞享3年 [1686]

「辰野町資料 第113号 三浦孝美」より

※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。

  

第二 武田小笠原諏方取合の事


 天文七年 [1538] 戌六月、(中略)

伊那衆 小笠原民部信貞大将には(これは長時公舎弟という)人数組にて

・平谷左近・浪合玄蕃・下条殿


この下衆で

・吉岡・勝谷・勝股・島田

これ大身


そのほかは、

・市岡・宮崎・野池

等なり。


・駒場・飯田・赤沢・宮田・林・片桐・小田切・飯島・上穂・大島

・溝口・一瀬・向山・殿島・箕輪殿・原田・保科殿・藤沢・中村・中沢

・木下・大泉・上古田・唐沢氏・殿村・倉田将監

・知久・座光寺・松島・大出・有賀樋口・小河内

 柴は羽場村也 ・辰野・宮木・矢島氏・漆戸左京・同庄右衛門尉

・宮所・平出・長岡・赤羽備前守・小野、

いずれも大身小身ともにかくのごとく也。


惣軍勢およそ一万三千余にて、天文七年 [1538] 戌六月中旬に、諏訪衆先陣にて、甲州へ攻め入り、韮崎の此方に陣取なり。甲州方にても、飯富兵部板垣、御先をつかまつる。武田晴信公御出馬なり。(後略)





『入会山地での領主聞の紛争』箕輪町誌(歴史編)

http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0898.html


慶長六年 [1601] 高速・諏訪両藩の領界について紛争があった。

この紛争については手元に的確な史料を欠くため、伊那市手良八ツ手、登内才助の所論を引用する (登内家に残る遺稿)。

イ 慶長十六年小笠原秀政害状(千野貞昭氏所蔵)

ロ 諏訪郡境覚書(守屋貞幸氏所蔵)

ハ 明暦四年日陰入山論南小河内訴状

ニ 寛文四年日陰入山論南小河内訴状

ホ 赤羽記(赤羽俊房著)

へ 諏訪研究(栗岩英治)

登内才助は右の文献・史料に依拠して次のようにいっている(原文のまま)。


天正十八年 [1590] 小田原北條氏滅するに及び、秀吉は関八州を家康に与え、家康は味方の信州諸大名を関東移封した。

その後は諏訪に日根野高吉、伊那は毛利秀頼に与えられる。


高遠の保科は多胡に、諏訪氏は武州奈良梨に移れり、

慶長五年 [1600] 関ヶ原戦後天下の大権は徳川氏に帰せり。

家康は保科正直を高速に、諏訪頼氷を高島に復帰させた、

保科は慶長五年 [1600] 冬、諏訪は同六年 [1601] 春なり。


この本意の直後両藩は所領の境界論惹起せり。

この事件は始め諏訪氏より、伊那の沢底村及びこれに続く林野、青山から日向・日陰は全部諏訪領であるといいしより争論となりしが、坂井家次の扱いにて沢底村は高遠保科領とし一旦は解決したが、山地は未解決のまま慶長の末に及びたり。


この間保科は 柴太兵衛樋口勝監、諏訪は千野靭負両角戸太夫の重臣を派して、江戸表で争いしも解決せず

江戸幕府は、飯田藩主小笠原秀政をして解決に当らしめた。

小笠原秀政は信州諸大名屋代忠政千村良重をまじえ、

酒井家次等と共に裁決せり。この結果今日でも地形上不自然と小思われる真志野峠以南、後山・椚平・上野・板沢・除石などを包含する地域を諏訪領と決定した。


ただし入会は前々の如くということで、この争いによって変化することはなかった。



関連項目:樋前の城大石城沢底日向の館址