飯田線北部区間の前身は路面電車だった


飯田線北部区間の前身は路面電車だった

「鉄道廃線跡を歩くⅥ」 宮脇俊三 著 1998年4月〜11月取材


伊那電車軌道は長野県下で最初の私鉄として、明治42年(1909)12月28日に辰野(後の西町)〜松島(現・伊那松島)間を開通させた。


 伊那電の発起は古く、すでに明治28(1895)12月には辰野から飯田までの電車鉄道の敷設請願書を内務大臣に提出している。この前年、帝国議会は中央線諏訪〜名古屋間を伊那・飯田経由ではなく木曽福島経由で建設することを決定した。これにより伊那谷に官設鉄道の代りの鉄道を敷設する気運が盛り上がったのがその興りである。


 そして、明治30年(1897)2月には敷設認可(特許状)を得た。しかし当時は日清戦争直後ということで、株式募集は難しく、会社設立は一時中止ということになった。日露戦争後に財界の好転が始まり、ようやく明治40年(1907)になって会社設立にこぎつけた。この年の10月27日から測量を開始、翌年9月からは軌道工事にも着手した。


 発起人らはこの間、特許が失効しないようにさまざまな理由をつけて工事施工をを引き延ばしていたことになるが、10年間もの長きにわたって延ばし続けることに成功した会社は珍しい。


 伊那電の最初の区間は辰野を起点としているが、中央線の辰野駅を起点としているが、中央線の辰野駅とは接続できなかった。乗り継ぎ旅客と積み替え貨物で賑わっていた辰野は、馬夫組合はもとより村を挙げて伊那電の中央線辰野駅引き込みへの反対運動を展開したからである。この反対運動は大正5年(1916)にようやく解決し、同年11月23日に中央線辰野駅までの乗り入れが実現した。このとき、従来の起点だった辰野駅は西町駅と改称している。