02近藤周家 飯田郷へ



近藤周家 飯田郷へ

老臣 窪田 行村 吉川 三人同道ニ而登ル

此時飯田郷ゟ迎として 木下源蔵 近藤与作 原助右エ門 右三人 六郎ニ属し 則飯田郷松原ト云所ゟ居館を構 九ヶ年居住ス 今此所ヲ近藤林と云也
建久六年
[1195] 卯年 飯田居館を曵移シ家名を改 坂西ト号ス 従天居住シ也

坂西長門守代 建保年 [1213-1218] 今飯田本城 其頃ハ真言宗之行所成ヲ 城地ニ見立 城壁を築立移立 則為替地飯坂を真言之行所ニ遣ス 今愛宕三社是也

今 飯田城本丸之後曲輪に山伏丸ト云廓有 又 其奥ニ小山一固有 熊野権現勧請ス


管理人訳:
(1187年)老臣の「窪田」「行村」「吉川」の3人が(伊奈郡邸戸庄に)同道した。この時、飯田郷からは迎えとして「木下源蔵」「近藤与作」「原助右エ門」の3人が近藤六郎周家に属し、飯田郷の松原という所に居館を構え、9年間居住した。現在この場所を「近藤林」と言う。

1195年・建久6年の卯年、居住地を「飯田」に移し、名前を改め「坂西」と名乗った。(従天居住シ也)

1213年〜1218年の建保年間、坂西長門守の代になり、現在の飯田本城で、当時は真言宗の行所(修行の場)だった所を選び城壁を築き、城を移した。代わりに「飯坂」を真言宗の行所とした。現在の「愛宕三社」がこの地である。


今(1770年・明和7年)飯田城の本丸の後ろの曲輪に「山伏丸」という曲輪がある。また、その奥に小山が一つあり、そこに熊野権現を勧請した。



管理人考:
別の資料では(NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ)老臣の名前が「久保田」「竹村」「吉川」とあり、郊戸郷の百姓が鎌倉の頼朝に要請して地頭職を置いてもらったという。それを受けて近藤周家が派遣されたとのこと。





※赤字は管理人が加えた注釈や西暦など