柴氏

伊那十三騎 柴氏 本拠地:辰野町羽場






 

『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆



 郡記などに依ると、甲州源氏小笠原が、伊那の地頭になり貞宗の時、貞和年間 [1345-1349](北朝、尊氏のころ)松本の井川に移って信濃の守護となった。

 その貞宗の四男にあたる重次郎というのが、羽場に移り、ここに築城して羽場姓を名のり、代々この地を相続してきたが、弘治二年 [1556] のころ、武田軍の侵入にあって没落してしまった。そのあとは柴河内守が入っていたが、天正十年 [1582] 、織田氏の侵入にあって没収された。[p30/31]


 また、沢の門屋大槻氏方に伝わっていた「大出沢村根元記」によると、(略)この城(羽場城)の北、北丿沢をへだてて柴河内守の居城の跡がある。弘治年中 [1555-1557] まで、ここに居住していたが、その子孫は保科氏に属し、物頭格となり、五百石を賜り今もそのまま残って居る。[p31]


城下町の区画残る

 最後の城主柴氏か誰かが新城を設計し、前面に城下の町を計画したが、そのままになり、大坂役後には一国一城の制が敷かれたので、これらの城は自然廃城となったのである。しかし城下の区画はそのまま残り、三十五間かく [63.63m] 位の枡形に道は交さくしている。家東とか、若宮とか言っている。この城の面積から言えば本丸に収容の兵約二百人、三十 [54.54m] 四方位を本丸として使うつもりであったらしい。本城の東に土塁をもった十五[27.27m] の矩形の築地がある。城に付属した、出丸か出曲輪とか言うもので、今は氏神などの合祀地となっている。[p33/34]





『小平物語』小平向右門尉正清 入道常慶  貞享3年 [1686]

「辰野町資料 第113号 三浦孝美」より

※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。

  

第二 武田小笠原諏方取合の事


 天文七年 [1538] 戌六月、(中略)

伊那衆 小笠原民部信貞大将には(これは長時公舎弟という)人数組にて

・平谷左近・浪合玄蕃・下条殿


この下衆で

・吉岡・勝谷・勝股・島田

これ大身


そのほかは、

・市岡・宮崎・野池

等なり。


・駒場・飯田・赤沢・宮田・林・片桐・小田切・飯島・上穂・大島

・溝口・一瀬・向山・殿島・箕輪殿・原田・保科殿・藤沢・中村・中沢

・木下・大泉・上古田・唐沢氏・殿村・倉田将監

・知久・座光寺・松島・大出・有賀・樋口・小河内

 柴は羽場村也 ・辰野・宮木・矢島氏・漆戸左京・同庄右衛門尉

・宮所・平出・長岡・赤羽備前守・小野、

いずれも大身小身ともにかくのごとく也。


惣軍勢およそ一万三千余にて、天文七年 [1538] 戌六月中旬に、諏訪衆先陣にて、甲州へ攻め入り、韮崎の此方に陣取なり。甲州方にても、飯富兵部板垣、御先をつかまつる。武田晴信公御出馬なり。(後略)






羽場城 案内板



羽場城の由来


 内堀、中堀、外堀の址が今も残っている羽場城址は 今からおよそ450年前、天文 [1532-1555] のはじめに下伊那松尾の城主小笠原貞宗の四男、小笠原重次郎がこれを北の沢を濠として建てたといわれている。


管理人考:現在の羽場城ではなく、その北西のこと。また小笠原貞宗 [1292-1347] と小笠原重次郎 は南北朝 [1336-1392] 時代の人物なので1300年代の話である。天文年間は間違いか。


その後武田勢が伊那谷へ攻めて来た時は、小笠原長時は、旗本間肥前守時信をもちいてよく城を守り抜いた。


続いて小笠原氏は宗氏の四男、左門から左太夫氏行 左京進行重 掃部助重氏、同じく行政政氏等に在城させていた。


その後、弘治年間 [1555-1558] 、武田氏再度の侵入があった時、政氏は遂に屈服してしまった。


そして武田氏は、制圧した後、柴河内守にこの城を守らせたが、天正10年 [1582] 2月 織田氏のために落城した。


織田氏は、文禄年間 [1593-1596]京極修理太夫高知が飯田に在城していた時、羽場城には城代を置いて近隣をおさめさせていたが、間もなく廃絶となった。

在城は約50年となる。


明治43年 [1910] 、秋葉神社を合併した手長神社を新設して今に至っている。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E6%B5%AE%E6%8F%90

『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


大出氏と柴氏の境界決め 関連地:辰野町羽場/箕輪町沢


 柴氏の羽場村と大出氏の沢村との境界をきめる時、両方で馬を引いて出合った所を境としようときめた所、沢村では、飯を食っておそく出たために羽場村に余分にとられてしまった。とにかく、この手長の桜(手長の森)南辺が境になっている。[p33]






「手長神社舊蹟之記」より 大正三年 [1914]


羽場手長神社を再建 関連地:辰野町羽場


手長神社旧蹟の記 元宮の石碑を現代語に訳す

 信濃国上伊那郡伊那富村羽場区字南原に鎮座する手長神社は、古の昔に創建されたため、当地の総鎮守である。

時代は下って、天文二十四年 [1555] 柴河内守が再建する。

神祇官(じんぎかん)が幣帛(へいはく)を 共進(神に供物を供えること)した。

藩主が祈願・寄附などをすることもあった。

武門武将に誉れ高く、大変厚く帰依尊崇された。

社殿ははじめ、ここから三 [約327m] 南の「古宮の地」にあり、弘治年間 [155-1557] にこの地に移って来た。




『上伊那郡史 全』より 唐沢貞治郎 編 上伊那郡教育会 出版 大正10年出版 [1921]


 手長神社 祭神:瓊々杵尊保食神火彦霊神仁徳天皇 創建:大化以前 

仁徳天皇の朝 [313-399] 賜材再建、慶雲三年 [706] 造営、 坂上田村麿 [758生-811没] 、金刺舎人の武器奉納殿宇修造等のことあり。

往昔より佐補郷の総鎮守たりしと伝ふ。

武田信義 [1128生-1186—没] の祈願、柴河内の再建等 [1555] あり、其の他戦国時代に於て近郷豪族の祈願寄進少からず。

飯田城主京極高知 [1593-] も又宝物幷(ならび)に神器を奉納したりと云ふ。

弘化四年 [1847] 八月五日神祇官より幣帛の寄進あり、明治四十年 [1907] 九月二十日神饌幣帛料共進神社に指定せらる

往昔の社地は字古宮と称する處なりしが、天文 [1532-1555] ・弘治 [1555-1557] の間 兵火に罹り(かかり)て、字南原に移転鎮座し、是れより数百年星霜を経たりしが 明治四十三 [1910] 年十二月八日 字家東なる無格社秋葉神社趾に建設し正遷宮の典を挙げたり。





大出高橋神社を再建 関連地:箕輪町大出

『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より


 天文24年10月9日 [1555/10/9] の年紀を有する箕輪町大槻幹氏所蔵の棟札銘写に「信濃国伊那郡宝喜原荘大井弖郷大手大明神御宝殿建立之大旦那柴河内守」とあり,宝殿が建立されている(信史12)



信濃史料 昭和26〜44年 [1651-1969]

※読みやすい様に管理人が箇条書きなどを加えています。


巻十二


(弘治元年 [1555] 十月)九日、柴河内守、伊那郡大手大明神宝殿を建立す、

[棟札銘 写]上伊那郡箕輪町 大槻幹氏 所蔵


南閻浮提(みなみえんぶだい=仏教用語・人間の住む世界)大日本国 仲山道 信濃国伊那郡 宝喜原(蕗原荘)大井(大出)郷 「大手大明神」御宝殿 御建立(之)。 

・大旦那「柴河内守」

・三官は「孫六」

・大工「掃部(かもん)衛門」

・板の勧進(かんじん=寄附を募ること)楠 大出郷

・木師六人 北大井弖 数は多少(之)

勧進申し入れ⬛️(悠の上部分)


・大井弖殿

・小河内殿

・松嶋殿

・讃岐守殿


⬛️(草冠に房)恩は神田(かんだ・しんでん=神社の祭祀などの運営経費にあてる領田)御寄進成られ候、天長地久(てんちょうちきゅう=いつまでも続くこと)、御願円満、一切請願、皆令満足(みな満足せしむ)なり。


⬛️ 天文二十四歳 [1555] 乙卯十月初九日






下古田の合戦 関連地:箕輪町下古田

「神社資料目録」箕輪町教育委員会より 平成17年 2005発行


白山神社概要

 弘治2年 [1556] 当地に小城塞が築かれていた。元亀元年 [1570] 9月武田信玄の知行地となり、近郷古跡誌によると、天正年間 [1573-1591] 当地の城塞及び白山神社は兵災に罹り(かかり)宝物記録多数焼失したと伝えられる。


 


 


管理人考


 「神社資料目録」にある「小城塞」や「城塞」というのは柴氏の古田城のことであろう。城山という名前も残っている。

 羽場城主であった柴河内守の二男、柴氏之太夫信純が天文10年 [1541] に分家し下古田に築城したという記録が子孫の家に残る。


「神社資料目録」によると、古田が武田信玄の知行地になるという年が、元亀元年 [1570] 9月というので、福与城が天文14年 [1545] に落ちて上伊那全体が武田支配下になってからしばらくの間、下古田や上古田地区はまだ武田に属していなかったのか・・・?木曽系の勢力が西山伝いにあって、武田も手をつけていなかった・・・・など想像してしまう。


 同じ家の資料に天正元年 [1573] 3月6日の夜に武田勝頼が古田城を攻め、落城、討死したと伝わる。「神社資料目録」にも、天正年間 [1573-1591] 城塞及び白山神社が兵災にかかり、宝物記録多数焼失したと伝えられる。


 信玄の亡くなる一ヶ月前に、信玄の知行地であった下古田に、その息子の勝頼が攻め入って来るとなると、元亀元年 [1570] 9月から武田の支配下になったものの、反旗を翻し武田に敵対の意志を示したため、武力で攻められた・・・・という様なことも考えられるだろうか。


 下古田から西山伝いに上古田、一宮、富田と続くが、富田の向山氏の家には「柴がたてつくので柴をこらしめた」という様な内容の伝承が残っているという。向山氏といえば、武田勝頼が高遠に入る時に、甲斐から勝頼に付けられた、勝頼直属の家来である。向山氏の本拠地は高遠城に近い、手良などの天竜川東の伊那地方だが、ここ富田には向山という家が大量にある。下古田を含む西山つきのエリアを勝頼軍が進行攻略し、その地に向山氏の一部が分かれて本拠を移し、再び反乱が起きないように前線基地を置いたのでは・・・・と考えてしまう。

 また、西山つきのルートはそのまま後の権兵衛峠に山沿いに続き、そして木曽へと続く。当初武田に抵抗したものの、その後服従し、武田信玄と姻戚関係になった木曽義昌がいる。勝頼は木曽義昌にとっては義理の兄である。彼は勝頼のやりように大変不満があり、最終的には勝頼を裏切って、武田家の滅亡のきっかけとなる織田信長との盟約を結ぶことになる。信玄が1545年に福与城を攻略し、上伊那地方の豪族はここで武田の傘下に組み入れられるが、西山つきのエリアはちょっと話が違うのかもしれない。それが福与城攻略から25年も経った後の下古田の武田家知行地化なのではないだろうか。


ここで時系列を整理してみる。


南北朝ころ 下伊那松尾の城主小笠原貞宗の四男 小笠原重次郎 が北丿沢に羽場城(古城)を築城する。


1538 柴氏、伊那衆の一員として小笠原信貞に従い、韮崎にて武田軍と戦う(韮崎の戦い

1541 柴氏、下古田に築城・分家する=下古田柴氏の初代

1543 伊那衆、小笠原信貞に従い、青柳にて武田軍と戦う(小笠原/木曽 vs 諏訪/武田


1544 武田氏の伊那谷侵攻① 信玄荒神山を攻める。荒神山から羽場城には小笠原長時の旗本間肥前守時信が守る。伊那衆も荒神山に籠った(高遠合戦

1544 荒神山を落とした後、武田軍は羽場と松島で藤沢頼親の後詰めと合戦。同時に高遠頼継の諏訪攻めで武田軍は甲斐へ撤退する。

1545 武田氏の伊那谷侵攻② 高遠城落城。援軍 小笠原長時の竜ヶ崎城が落ち、藤沢頼親の福与城も武田軍により落城。(羽場城はまだ)

1547 武田信玄、秋山伯耆守上伊那郡代に(拠点は高遠か)。

1548 武田信玄、高遠城を改修・築城する。

1555 武田氏の伊那谷侵攻③ 武田信玄が羽場に再度侵入。ここで羽場城の小笠原政氏は屈服。手長神社が戦により破壊される。柴河内守が羽場城に入る。


1555 柴河内守(羽場柴氏)が手長神社(羽場南原か)・高橋神社(段丘下の大出高橋に)を再建。

1562 勝頼が諏訪氏を継承し、同時に高遠城主となる(『軍鑑』によれば伊那郡代に就任)秋山伯耆守は飯田城主に。


1570 9月、下古田が武田信玄の知行地になる(福与城落城から25年後ここでやっと信玄の支配下に入る・勝頼の高遠城入城から8年後)

1573 3月、武田勝頼が攻めて古田城落城(下古田柴氏)、下古田の白山社も被害にあう。(武田支配から2年半後)

1573 4月、武田信玄が死亡。


1582 2月、織田信長が伊那を攻略。柴氏の羽場城在城も長くてここまでか毛利秀頼は高遠城攻略に功があり伊那支配を任される。

1582 織田信長が武田氏(武田勝頼)を亡ぼす。

1582 6月、本能寺の変で織田信長死亡。毛利秀頼は武田氏旧臣の反乱を恐れ、伊那を捨て尾張に逃げる。4ヶ月程の統治。



武田(勝頼)と織田が同年に伊那谷から去る。

上伊那の有力武将は、北条につくか徳川かにつくかで混乱する。

保科氏=北条側→徳川側  藤沢氏=北条側

伊那衆(上伊那十三騎など)は保科につくか、藤沢につくか論議を重ねる。

藤沢氏の田中城を保科氏が攻めた時点では、伊那衆は藤沢氏について田中城に入っている。



1590 小田原の北条氏滅亡。豊臣秀吉による徳川家康 関東移封。保科は多胡へ。羽場柴氏も同行か。下古田柴氏は残る?。伊那は再び毛利秀頼の統治に。

1600 関ヶ原の合戦。保科正光は浜松城を守る。羽場柴氏も同行か。保科と諏訪が旧領に復帰する。

1600 関ヶ原の合戦後、保科正光は戦後2ヶ月ほど、越前北之庄城の城番に。羽場柴氏も同行か。

1601 高速・諏訪両藩の領界争いで保科配下の柴太兵衛羽場柴氏流)・樋口勝監、江戸に派遣される

1615 7月、柴太兵衛羽場柴氏流)、大坂夏の陣に保科正光の旗奉行として参加

1636 高遠城の保科正之が出羽山形に移封される。柴氏も従う。


武田氏の伊那谷侵攻

天文13年 [1544]

天文14年 [1545]

天文23年 [1554]

弘治1年 [1555]





『入会山地での領主聞の紛争箕輪町誌(歴史編)

http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/html/0898.html


慶長六年 [1601] 高速・諏訪両藩の領界について紛争があった。

この紛争については手元に的確な史料を欠くため、伊那市手良八ツ手、登内才助の所論を引用する (登内家に残る遺稿)。

イ 慶長十六年小笠原秀政害状(千野貞昭氏所蔵)

ロ 諏訪郡境覚書(守屋貞幸氏所蔵)

ハ 明暦四年日陰入山論南小河内訴状

ニ 寛文四年日陰入山論南小河内訴状

ホ 赤羽記(赤羽俊房著)

へ 諏訪研究(栗岩英治)

登内才助は右の文献・史料に依拠して次のようにいっている(原文のまま)。


天正十八年 [1590] 小田原北條氏滅するに及び、秀吉は関八州を家康に与え、家康は味方の信州諸大名を関東移封した。

その後は諏訪に日根野高吉、伊那は毛利秀頼に与えられる。


高遠の保科は多胡に、諏訪氏は武州奈良梨に移れり、

慶長五年 [1600] 関ヶ原戦後天下の大権は徳川氏に帰せり。

家康は保科正直を高速に、諏訪頼氷を高島に復帰させた、

保科は慶長五年 [1600] 冬、諏訪は同六年 [1601] 春なり。


この本意の直後両藩は所領の境界論惹起せり。

この事件は始め諏訪氏より、伊那の沢底村及びこれに続く林野、青山から日向・日陰は全部諏訪領であるといいしより争論となりしが、坂井家次の扱いにて沢底村は高遠保科領とし一旦は解決したが、山地は未解決のまま慶長の末に及びたり。


この間保科は 柴太兵衛樋口勝監、諏訪は千野靭負両角戸太夫の重臣を派して、江戸表で争いしも解決せず

江戸幕府は、飯田藩主小笠原秀政をして解決に当らしめた。

小笠原秀政は信州諸大名屋代忠政千村良重をまじえ、

酒井家次等と共に裁決せり。この結果今日でも地形上不自然と小思われる真志野峠以南、後山・椚平・上野・板沢・除石などを包含する地域を諏訪領と決定した。


ただし入会は前々の如くということで、この争いによって変化することはなかった。







『矢文の渡し』駒ヶ根市役所企画振興課

http://www.city.komagane.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=11563&i=13570

 

小鍛冶の矢文の渡


元和元年 [1615] 、大阪に徳川氏と豊臣氏の戦いがありました。(大坂夏の陣) 


 徳川方の家来である高遠藩主保科正光が、中沢郷の坂井新左衛門に戦いに参加するように命令がありましたが、坂井新左衛門が病気だったので、次男の佐太夫近忠が代わって、作男(さくおとこ=雇われて耕作する男)の庄右衛門を連れて戦いに行きました。


 その年の7月、旗奉行 柴太兵衛 の家来として大坂城に攻め込みました。坂井佐太夫近忠は深い傷を負って死んでしまいました。作男もほうぼう傷を負い思案にくれましたが、せめて戦いの様子を坂井家の人達に知らせようと、傷ついた体で坂井佐太夫近忠が大事にしていた刀と髪の毛を持って穴山に向かいました。穴山といっても大阪からは長い道のりでした。山を越えたり、谷や川を渡ったりして、何日も何日も歩き続けて、ようやくのことで小鍛冶にたどり着きました。でもその日、天竜川は毎日の大雨で川の水があふれ出ていて、川を渡ることができませんでした。(話は続く・以降はこちらから)





管理人考 2016


旗奉行」とは戦場にて旗指物の管理を行う役目。

元和元年 [1615] の7月「大坂夏の陣」において、柴太兵衛旗奉行として保科正光の配下にあった。

その旗奉行 柴太兵衛の下に中沢郷の坂井佐太夫近忠とその作男 庄右衛門が配属されていた。






『街道物語5 伊那街道』三昧堂 木村幸治ほか  1988出版

http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN06909048


しくじった河童

 伊那谷を流れくだる天竜川は、名のとおりの暴れ川で、雨期になるとかならず氾濫して川ぞいの家や畑をおし流し、村に多くのわざわいをもたらしたものだった。

 そんな暴れ天竜だが、ところどころには淵もあり、またそれがかえって村びとに不気味を思わせる場所でもあった。天竜川のほとりに、柴河内という一介の百姓がすんでいた。河内は、畑でとれた作物を納屋へ運んだり、市へだしたりするときのために、一匹の馬を飼っていたが、用のないときはたいてい馬は野に遊ばせておいた。

 馬もこころえたもので、河内のおよびがかからないかぎり、かってに野にでて草をはみ、日が暮れるとまた小屋にもどってくるのだった。

ある日、河内がひと仕事すませて家へもどると、なにやら馬小屋のほうがさわがしい。はて?と河内がいってみると、ふだんはおとなしい馬が興奮してはねている。河内がみると、藁のなかで河童が死んでいた。

「ははん」河内がとびこんで河童をつかみあげると、河童は目をあけた。が、あとのまつり。

「煮てくうぞ、焼いてくうぞ、日干しにして柿の木につるしておくぞ」

河内がおどすと、河童は目になみだをためてぺこぺこと頭をさげる。河内は、腹の中で大笑いしながらさんざんおどかしたすえに、河童を天竜川の淵にはなしてやった。

 その後、河内の家の門口に、ときどき魚がおいてあったという。[p157]


街道物語5 伊那街道 挿絵より




『かわらんべ』天竜川総合学習館 天竜川 川の旅

http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/kawaranbe/series_v/series_v_2013.html


第13回 懐かしい遊び場 - 羽場下(はばした) 広報誌かわらんべ133号掲載分


昭和30年代後半、羽場淵辺りは子供たちの遊び場でした。 戦国時代に築かれた羽場城址が淵直上にあり、その縁に立つ巨木の根元の空洞を秘密基地にしていました。羽場淵に注ぐ北の沢川は、伊那谷最北の田切地形をつくり、旧国道153号(三州街道)が渡る煉瓦造りの眼鏡橋を抜けて淵へと行きました。

 この淵は深くて渦を巻き、気をつけないと河童に引き込まれるぞ―と親によく言われたものでしたが、昭和57年災害後の改修工事により、その姿は大きく変わりました。河童伝説(蕗原拾葉「柴太兵衛 河童を捕まえること」)は遠い昔のこととなりました。

 下流の河原では、花崗岩の礫を割って水晶をとり、その大きさや形を自慢し合いました。また、洪水後に出現したワンドに魚がたくさん泳いでいたことを今も鮮明に覚えています。 松井一晃(NPO法人 川の自然と文化研究所




管理人考 2015 2016


「小平物語」にも柴河内守と河童の物語が収録されているが、「街道物語」の同エピソードはさらに物語調に脚色されている。柴河内守が百姓だったり、河童が死んだ様な状態で見つかったりは他にはない要素なので、やはり他地域の同様な河童伝説が混じっているような気がしてならない。

また羽場柴氏が羽場にいたのは何年までか。保科氏の配下であったので1590年の関東移封=多胡への移住には従ったのではないか?

その10年後、1600年に保科は高遠に復帰するのだが、そのとき柴氏は再び羽場に戻ったのか、それとも高遠城下に屋敷を作ってそこに住まったか。

これから調査が必要である。

・河童伝説は関東移封の1590年まで

・もし保科高遠復帰後も羽場に戻ったのなら1600年以降も候補に

1590年以降、羽場の墓守として残った柴一族、または柴氏関係の別系統が羽場に存在したとしたら、彼等の事かもしれない

・柴河内という名があるが、「河内守」という記録が正確であるとすれば人物は2名程に絞られる(柴家家系図参照)