第十二・たしなむべきは弓である


『小平物語』小平向右門尉正清 入道常慶  貞享3年 [1686]

「小平物語」 ※読みやすい様に管理人が箇条書き・()などを加えています。


第十二・可嗜弓物語之事


三河野田の砦 甲州御先衆にて取詰候處に城中大形弱リ攻落す 半時計以前に月毛の馬 長三寸計も有に黒威の鎧 同毛の甲を着十手計指たる矢壺を負ひ 塗木の弓を持 陣所の前を静に乗出し落て 行年の頃は四十計に見ゆる武者也 先衆これを見 諸手より武士二三騎ツ、乗出し喰い留けれハ その間五六間 或は七八間にして乗返し 暫し止り矢をつかひ引撓メハ 喰留る事ならす 紛レニ逃延たるとなん
武田家にも随分腕を磋大功の武士共不能討事落たる也
兎角 士の可嗜は弓なりと此節存る也
十六才の時 三州にて見之
同國吉田にて聞之に 家康公ノ御内にて 大久保と言者也 ト聞由 圓帰語之


管理人訳:
12.「たしなむべきは弓である」

三河(現・愛知県中部)の「野田の砦」は甲州の先方衆に取り囲まれ攻め落とされた。
半刻(約1時間)ほど前に、長さが三寸(9.09cm?)ほどの「月毛の馬」に黒の鎧、同色の甲を着て、10本ほどの矢を入れた矢壺を背負い、塗木の弓(漆塗りか?)を持って、陣所の前を静かに乗り出してきた、歳は四十ほどと思われる武士がいた。
(甲州の)先方衆はこれを見て、いろいろな方向から2〜3騎の武士が出て食い止めると、その間5〜6間(9.09m〜10.9m)または7〜8間(12.7m〜14.5m)のところで向きを変え、しばらく止まって矢をつがえ、引き撓め(たわめ)たが、喰い留めることができなかった。紛れて逃れられたという。
武田家の中でも腕を磋いて(みがいて)大功の武士達だったが討つ事ができず、逃げてられてしまった。
とにかく、武士のたしなむべき事は「弓」であると、この時分かった。
16歳の時、三州(三河=現・愛知県中部)で見たことである。
同国の吉田で聞いたところでは、(その武士は)徳川家康公の家臣で「大久保」と言う者であるという。小平円帰が語った。


管理人考:
→三河の野田城
→月毛の馬
→三河の吉田