大出の里小屋城(南北朝〜)


『伊那の古城』篠田徳登より  昭和39〜44年執筆


 昔は大出の城村といっていた。[p62]

この部落は西山つきの長田から移って来たといわれている。建武年間 [1334-1338] に尊氏に属していた木曽又太郎家村が伊那の北部を制し、嫡男、木曽太郎源義親(=義信)というものに伊那の領があたえられ、義信より六代小太郎義行、大出の古城より南の里小屋という所に居をかまえ、家号を大井出とあらためたという。その次の但馬守源義次という城主の時、永禄年中 [1558-1570] 、武田のために滅亡。大出の里小屋城にいたのはわずかの年数だった。[p62]

 城内は広く、本丸から外城まで三つの掘があり、北の丸には大永寺がある。南の丸の突端は半島の形をなし、今ここは社地となっているが、深さ三間程の掘が、そのまま残っている。本丸はその北の辺で掘をへだてて大永寺の寺やしきとなっている。[p62]

 城内は広く臣下の屋敷をとって、家門(血縁集団のこと)屋敷などの名が残っていたそうだが、城下町はなかったと云うけれど、大出の部落の地割りをみると、ちゃんと区画が作られており、掘のあとも判然としていた。



『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より


(大出の)地内には深沢川と天竜川の合流する付近の河岸段丘を巧みに利用した平山城形態をもつ大出城跡があり、壕跡も明瞭に残る。城跡の北西に城村(じょうむら)という集落があり、城下町の面影を残す。



管理人考 2015


 建武年間 [1334-1338] に足利尊氏側についていた木曽家村が武功の恩賞として伊那あたりの領土を与えられた。木曽氏は山を越えて伊那に侵入した。1338〜1341年には家村の子、木曽義親が高遠城主となり、高遠太郎と称したとのこと。木曽義親は義信とも言った。その木曽義親より6代という時間が経過した後、小太郎義行がかつての大出古城の南の「里小屋」と呼ばれていたエリアに、別に「里小屋城」を築城した。そして大井出氏を名乗る様になった。ということか。

 城のふもとやそばの、城下町や家臣の家、日常の住まい=居館を置いた場所を「小屋」と言ったらしい。古城の南が「里小屋」と呼ばれていたということは、ここに鎌倉時代の大出古城時代になんらかの居館があった可能性もある。


木曽氏系大出氏の里小屋城推定エリア 2015作成



『箕輪町歴史行脚』小川竜骨より  昭和54年 1979年 出版(原文は詩調)


天竜川と深沢の流れ見下ろす高台に築きし大出城の跡 天文 [1532-1555] 天正 [1573-1593] 年間に福与の城主門葉の藤沢式部居城にて 北に三筋の空堀を蛇の目の如く巡らせり [p4]